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井上総司/ANTIFA

小泉悠『「帝国」ロシアの地政学』

現代ロシアがどのような秩序観をもとに、どのような軍事戦力を展開しているかを分析した著作。今回のウクライナ侵略が、どのような文脈において、何故発生したのかを理解するのに非常に役に立った。

そもそもロシアの主権観は、私たちが通常理解しているような各国の平等と内政不干渉というものではないという。主権を持つのは大国のみであり、その他の中小国は形式的な主権しか持たず、大国に介入されるのは仕方がない、というものである。そのような主権観を軸に、現代ロシアは、旧ソ連圏内の中小国をロシアの「勢力圏」と見做し、様々な形で影響力を行使している。そしてその「勢力圏」に対して、ロシア以外の勢力が影響力を拡大することは許容されてはならない。ロシアが「NATOの東方拡大」に強い警戒感を抱き強く批判するのは、まさにこのロシアの「勢力圏」という国際秩序観に基づくものだ。同時にそのように「勢力圏」の中小国の主権は軽視している一方で、「勢力圏」外においては、ロシアはウエストファリア型の主権国家体制秩序ー国境線こそが主権の及ぶ範囲であり、その外に主権を及ぼしてはならないーを支持してきた。つまりロシアの国際政治観にはダブルスタンダードが存在している。

更にこの「勢力圏」の観念は、「地政学(ロシアの範囲)をめぐる問題であると同時に、アイデンティティ(「ロシア」とは何なのか)の問題でもあった。」(p42)つまり、ロシアにとって、国境線は必ずしも絶対的なものではない。「ロシア的なもの」は必ずしもロシア国内のみに留まるものではなく、その国境線の外にまで広がっている。ロシアの秩序観、国家観とはそのようなものなのだ。

「ロシアの国家観においてイメージされる境界とは、浸透膜のようなものだ。内部の液体(主権)は一定の凝集性を持つが、目に見えない微細な穴から外に向かって染み出していく。仮に浸透膜内部の「主権」が着色されていれば、染み出していくそれは浸透膜に近いところほど色濃く、遠くなるほどに薄いというグラデーションを描くことになるだろう。」(p14)

このようなロシアの秩序観が、実際にどのようなロシアの対外戦略として展開されているか。グルジアバルト三国ウクライナ、シリア、北方領土、北極でのロシアの展開が分析される。特に現在関心が持たれるのはウクライナに関する分析であろう。ロシアの「勢力圏」という秩序観、

「このような観点からすれば、クリミアはたしかにウクライナ人だけのものではなく、ロシア人にとっても「共有財産」であろうし、「ロシアの一部であるところのウクライナ」をNATOに加盟させかねない暫定政権(註.ユーロマイダン後のウクライナ暫定政権)は、領土的一体性を損なおうとする勢力と言えなくもない。そしてロシアは、自らの勢力圏であるウクライナが西側によって侵食されるのを防ぐため、戦略的要地であるクリミアを急遽押さえた。これはロシアにとっても、「ロシアの一部であるところのウクライナ」にとってもNATOから身を守るための防衛的行動であるーこのように、(略)「ウクライナはロシアの一部」であるがゆえに、「ロシアにとってよいことはウクライナにとってもよいことだ」というロジックが貫かれている。」(p159)

そしてここから今回のウクライナ侵略を考えるならば、ロシアの行動は一貫して、ウクライナという国の主権と自立を認めず、どこまでも自らの「勢力圏」内として影響力を行使せんとする姿勢に貫かれていると言えるだろう。

私たちはこのようなロシアの秩序観をどのように評価するのか。このことを考えなければならない。現にロシア的な秩序観が現実の戦争として展開されている今、それを考える必要性はかつてなく高まっている。本書はそのような思考のために最も有意義な一冊である。

(「国際関係を大国間の「グレート・ゲーム」とみなすロシアの理解は、中小国の主体性を捨象してしまう危険性を孕んでいる。旧ソ連諸国や東欧社会主義国ソ連の支配権に組み込まれていた当時は、このような理解が一定の有効性を持ち得た可能性はあるが、ソ連が崩壊した現在においてさ(全く無効ではないにせよ)相当の留保を必要としよう。」(p80)

現在のウクライナ侵略を巡ってなされる左派の議論においても、ロシアの「グレート・ゲーム」的な秩序観を内面化し、その上でウクライナの主体的な決定を無視する傾向が見られる。カラー革命もユーロマイダンも、全て100%欧米の陰謀であり、故に正当性などなく、むしろロシアはそのような欧米の陰謀に対する自衛を行うのは当然である、というようなものがその典型であろう。果たしてロシアの秩序観ーかつてのソビエト帝国主義と同型にも見えるそれーを内面化して良いのか、正当化して良いのか。例え欧米の国際秩序に批判的であったとしても、そこを問うことを回避することは許されないだろう。欧米の敵であるからといって、ロシアが左派の味方であって良いのか。むしろ左派は、欧米でもロシアでもない、オルタナティブな国際秩序をこそ構想すべきではないか。)

noteから移動その7

安倍首相辞任に際して
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総志
2020/08/28 18:21 安倍晋三の辞任に際しての備忘録。まとまりには欠けるが、一つでも多くあるべきものだと思う。多くの人が、安倍が辞めたで「へーそうなんだー」で終わらず、少しでも主権者として何か言える社会こそが、健全な社会の条件だと思う。

 

 2020年7月28日、ついに安倍晋三が首相の座を下りる決定をした。( 安倍首相、辞任の意向固める - 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20200828/k00/00m/010/084000c )

 2012年12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙において、当時与党であった民主党を破り、再び安倍晋三を総裁とする自民党が政権与党に返り咲いた。安倍は2006年9月26日から2007年9月26日にも首相の座にあったが、その時も今回と同じく、体調の悪化を理由として辞任した。小泉政権以来、短期政権が連続して続いた中、第二次安倍政権は例外的に長期間にわたる政権となった。幾度かの総選挙と内閣改造を経て、2020年8月24日、歴代最長連続在任期間を更新した。28日の段階での在任日数は2803日となる。

 この長期間にわたる政権で、安倍晋三の第一の目標は憲法改正であったことは間違いないだろう。しかしそれは達成されることはなかった。政権発足当初から、まずは96条先行改正を成すべきだと主張していたが、これは多くの憲法学者、弁護士、そして何よりも世論の強い反対により断念された。更に2014年、2015年には集団的自衛権に関する解釈の変更、いわゆる「解釈改憲」を行い、それをもとにして2015年にはいわゆる安保法制が成立した。しかしここでも世論の半数程度は反発を抱いていた。またSEALDsを始めとした多くの抗議活動が連日国会前や官邸前で行われ、8月30日には国会前が、反対の意思表明をする市民により文字通り埋め尽くされた。

 確かに安保法制は成立したが、このように強く世論の反発を受けたことは、この後の憲法改正に関する安倍の主張をトーンダウンさせたように思われる。日本会議等の極右排外主義団体へのビデオメッセージ等々では強くそれを主張したとしても、例えば選挙等で憲法改正を主要な争点とすることはなかった。安倍本人は恐らくずっと憲法改正を悲願としていたのだろうが、結局市民の反発により、それは成し遂げられなかったと言って良いだろう。

 

 そのように憲法改正を悲願としつつ、安倍晋三は経済政策を主要な争点とし続けていた。いわゆるアベノミクスである。「三本の矢」や「新・三本の矢」など分かりやすいのか分かりにくのかよく分からないキャッチフレーズでもって、要は日本の経済が、バブル崩壊以降の不景気を脱するための政策、と概ね了解されていただろう。実際のところがどうなのか、これは僕には判断はつかない。経済に詳しくないという個人的な資質の問題でもあるが、同時に統計偽装が行われていたこと、また数字の上で経済成長があったとして、それが広く市民生活全般に行き渡っていたかという点においても疑問を感じざるを得ないからだ。

 一つ言えるのは、アベノミクスは確実に反緊縮政策であり、しかしにも関わらず、生活が楽になる程経済が良くなったとは感じられてはいないということ、そして反緊縮を掲げる反自民の市民は、このアベノミクスからこそ、教訓を吸い上げあるべき反緊縮政策を考えていかなければいけないということだろう。単に金をばら撒くだけでは生活自体が良くなることはない。分配の仕組みを考えるべきだということではないか。そしてそれは必ずしも反緊縮を第一とすることのない、むしろ福祉改革、社会保障改革とでも言うべき政策ではないか。何にしても、アベノミクスの評価はしっかりと行う必要がある。世論が評価した安倍政権の実績といえば、何よりもこのアベノミクスであり経済政策であったのは間違いないのだ。

 

 「外交の安倍」と言われていた。しかし僕は全くそのようには思わなかった。何故ならこと東アジア諸国との連携において、安倍政権になって後退することはあっても前進することはなかったからだ。東アジア共同体構想というものがあった。しかし安倍政権になってそのような多国間の協調を説く政治家は目立たなくなった。変わって目立つようになったのは、戦争責任を否定し、アジア太平洋戦争を礼賛し、東アジア諸国に勇ましく喧嘩を吹っ掛ける極右歴史修正主義者の群れだ。そのような連中を野放しにし、さらに自らのコアな支持層として尊重するなど、外交政策においてマイナスになってもプラスになることは決してないだろう。

 「外交の安倍」がやったこととは、東アジア諸国との間に深刻な不信の溝を作り上げたことである。そしてこの溝は日本社会にこそ着実に刻み込まれていると考えるべきであろう。韓国や北朝鮮、中国と言った近隣諸国に対する歴史修正主義や人種主義に基づく嫌悪感は、これから先も、安倍晋三が退陣した後も、日本の外交政策に暗い影を投げかけることは間違いない。無論それらの排外主義的な言説は第二次安倍政権以前にもあった。しかし第二次安倍政権以後、それらの発言は政治家によって繰り返し行われるようになり、この日本社会の公然たる主張としての位置を確立してしまった。多国間の協調に基づく外交ではなく、敵意と偏見に基づく国家間の対決を望む空気を作り出してしまった。「外交の安倍」などと言いながら、その実安倍政権下で行われたのは、外交という行為そのものを否定するような日本社会の排外主義化ではなかったか。

 


 第二次安倍政権下では多くの疑惑が取りざたされ、そのたびごとに証拠が無いとして多くのことがうやむやにされてきた。公文書管理としてどうなのかという話であり、また「責任を果たす」と言いつつ何もしない無責任さも問題である。森友学園加計学園、そして桜を見る会。これら三つのうち一つでも政権が吹っ飛ぶと言われ続けてきた。しかし政権はその後も続いた。ここから思うのは、日本の民主主義には、何か制度的な欠陥があるのではないかということだ。

 官邸支配という。しかしそのような支配が、法や正義すら振り払い、挙句国民に対する責任すら免責してしまっているように思える。もはや代議制民主主義ということもできないような、国民に対する侮辱と無責任がまかり通ってはいないか。必要なのは、このような不正と疑惑を免責してしまうような現在の日本の政治制度の再点検だ。どこに問題があり、それをどのように変えていくのか。何がここまで疑惑をうやむやにすることを可能にしたのか。嘘をついても責任を問われることなくのうのうとそのまま逃げ切ることを可能にしたのか。行政文書の改ざんなどと言う不正が何故行われ、またそれを可能にした根拠は何か、それをどうつぶすのか。制度の問題として、安倍政権を批判し点検することが急務である。そしてそれをするのは、第一義的にはメディアであり学者であろう。言論を仕事とする人間たちもまた、自分たちの属する組織なり環境なりを再点検しなければならない。何故このような不正と疑惑を見過ごしにしてしまったのか。そのことを真剣に考えるべきだ。

 


 問題は制度だけではなく、国民一人一人にもある。そう受け止めるべきだろう。結局のところ、選挙で安倍晋三を勝たせ続けたことにこそ、排外主義を社会に蔓延らせ、偽装を許容し、繰り返される不正や疑惑を放置することを可能にした最大の原因がある。安倍晋三を積極的に支持してきた人は、実はそんなに多くはない。何故支持しますかの問いには、常に「他にいないから」という答えが多数を占めた。また選挙のたびごとに分かるのは、最も多かったのは無投票だったことだ。安倍政権を支持したのは、硬いコア層と公明党支持母体であったと思われる。なんとなく傍観していた人が多数だったのだろう。しかしそれは有権者を全く無垢な存在と見做すことにはならない。確かに野党がだらしないと、言える場面もあるだろう。代案がないから仕方がないと、言って言えなくもないだろう。しかしそれらが批判の声を上げなくても良いこと意味するのか。不正義を批判しなくても良い言い訳になるのか。結局それらすべて、当事者になることからの逃避の言い訳ではなかったか。主権者であることを放棄し、尊厳を放棄し、権利を放棄し、倫理すら放棄し、そのすべてを外注し他人任せにしたのではなかったか。不正義は批判すればよい。代案など、当の不正義そのものを取り下げればそれで良い。野党がだらしないならばだらしがないと批判し支持するに値する候補を育てればよい。野党がだらしないから自動的に与党支持になるなど飛躍以外のなにものでもない。結局のところ、日本社会は敗戦からこの方、民主主義を全く実践できていなかったのではないか。口で言われる民主主義の主体は、常に自分ではない誰かではなかったか。

 


 安倍晋三が辞めた。この政権のレガシーがあるとすれば、何よりも上からの反動であった。ずっと安倍政権を批判しその支持者のネトウヨも批判し、醸される排外主義と人種主義の空気も批判してきた僕などは、祝賀会でも開くべきなのだろうか。そういう気分にはならないのが正直なところだ。安倍政権が遺す害悪は、これから先も続くだろう。その意味でまだまだやるべきことはあるわけだ。上からの反動が今後も続くかもしれない。改憲自民党の党是というならば、次の自民党の総理にしてもそれを言い続ける可能性が高い。また拉致問題なり領土問題に関しても、まだまだ排外主義と人種主義に基づくふざけた物言いが主流を占め続けるだろう。それは外交にも影響を与え、東アジアの時代と言われているにもかかわらず、東アジアから距離をとり続けることになるだろう。

 何にしても、安倍晋三が辞めたことは、安倍晋三によって主導された上からの反動の解体を意味することはない。これから先も、人権や民主主義を当たり前に尊重し実践する社会を目指すことには変わりはない。それは既に達成された目標などではなく、これから勝ち取らなければならないものだ。上からの反動という敵に抗いながら、実現されていくべき理念なのだ。

 

#社会
#政治
#時事問題
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「命の選別」は政治ではない
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総志
2020/07/07 19:23 れいわ公認候補の大西つねきが7月3日、自身のYoutubeLiveにて「命の選別」こそ政治だという旨の発言をした。

 大西はその動画内にてこのように語っている。

 どこまで、その高齢者を長生きさせるのかっていうのを我々真剣に考える必要があると思いますよ。あのー、なんでかって言うと、そのー、ま、今その、介護の分野でも医療の分野でも、そのこれだけその人口の比率が、えー、おかしくなってる状況の中で、あのー、特に上のほうの世代があまりにも多くなってる状況で、その高齢者をちょっ、もうとにかく長生き、死なせちゃいけないと、長生きさせなきゃいけないっていう、そういう政策をとってると、これ、多くの、これお金の話じゃなくて、あのー、勿論医療費とか介護料って、金はすごくかかるでしょうけど、これ、わ、こど、若者たちの時間の使い方の問題になってきます。どこまでその高齢者を、まちょっとでも長生きさせるために子供た、子供たちとか若者たちの時間を使うのかっていうことは、あの真剣に議論する必要があるとおもいます。まこういう話たぶん政治家怖くてできないと思いますよ。ま、「命の選別」すんのかとか言われるでしょ?命、選別しないとダメだと思いますよ。あのはっきり言いますけど。なんでかつーと、その選択が政治なんですよ。あのー、選択しないで、みんなに、こー、良いこと言っていっても、多分これ現実問題として、多分無理なんですよ。だからそういったことも含めて、あのー、順番として、これ順番として、えっとー、その選択するんであれば、えっとー、勿論、そのー・・・高齢の方から逝ってもらうしかないですよ。
 要するに、大西が認識する「政治」とは、「命の選別」であるということだろう。そしてその「選別」の結果、大西はまず高齢者に「逝ってもらうしかない」と主張する。

 しかし、「命の選別」は政治ではない、そして「命の選別」が政治であってはならない。

 いちいちそんなことも言わないとダメなのかとウンザリするが、しかし現にそれなりに知名度もあるれいわ新選組の公認候補が、また個人としてもそれなりに知名度のある「政治家」が、そんなバカげたことをドヤ顔で言うのだからガンガン「そんなわけあるか」と言わざるを得ない。

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 とりあえず日本国憲法を確認してみよう(太字強調筆者)

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。(『日本国憲法』前文)
 いわゆる平和的生存権の話ではあるが、ここではむしろ「生存する権利」の方に重点を置くべきだろう。「全世界の国民」に「生存する権利」があるのであり、間違っても死んでよい人間がいるなどとは書いていない。ましてやそれが政治だなどとは書いていない

 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。(第十一条)
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。(第十三条
 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的経済的又は社会的関係において、差別されない。(第十四条1項)
 更に長谷部恭男による岩波文庫版『日本国憲法』の「解説」より。

十三条は、すべての国民が個人として尊重されること、生命・自由および幸福追求に対する国民の権利が、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とすると規定する。国政は公共の福祉、つまり社会全体の中長期的な利益の実現を目的とする。しかし、国政は同時に、何が自分にとっての幸福であるかを国民それぞれが個人として判断し、その判断に基づいて自分の人生を自由に生きることを前提とする。(『日本国憲法』「解説」p176 岩波書店
 つまり日本国憲法によるならば、「国政」は、各人の生存を前提とする個人的な幸福を自由に追求することを妨げてはならず、そのうえで社会全体の利益の実現を目的としている。しつこいが、間違っても誰かの死を前提に社会全体の利益を求めよ、などとは書かれていない。

 


 続いて大西が所属(?)するれいわ新選組の「決意(綱領)」。(https://reiwa-shinsengumi.com/determination/

 あなたを守るとは、 あなたが明日の生活を心配せず、人間の尊厳を失わず、胸を張って人生を歩めるよう全力を尽くす政治の上に成り立つ。
 私たちがお仕えするのは、この国に生きる全ての人々。
 当然、「人生を歩める」とは生存を意味する。そしてれいわ新選組は「この国に生きる全ての人々」に「お仕え」するのであり、やはり「選別」された一部の人々ではない。

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 大西つねきは日本国憲法の理念に反するとともに、れいわ新選組の理念に反するということが言いたい。僕個人はれいわ新選組に対して非常に批判的である。その上で大西が言っていることは、れいわの理念に反していると判断するほかない。ならば僕のような「アンチ」だけではなく、れいわを支持する人々こそ、キッチリ大西を批判すべきだろう。もしこれをスルーし容認するのであれば、れいわの語る理念は、全くの空語でしかないということになるだろう。

 またそもそも論として、「命の選別」が政治として許容されるはずがない。それは相模原事件のような殺人を、政治として、政策の可能性として許容し検討し「意見」として登録することに外ならない。麻生や杉田水脈とどう違うのか。そんなことが許されて良いわけがない。ふざけるな。

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 にも関わらず、このような大西に同調する意見もあった。それもあるからわざわざこうして大西の否定を書いている。非常に鬱陶しい。

 大西さんの言ってることのどこがナチスと一緒なんだ?余裕がなくなって、究極の選択が迫られたとき、どっちを選ぶしかないんだよ。
 個人的な「ポエム」と断じて良いだろう。お前のふにゃふにゃのロマンティックな実存的決断など知ったことではない。その論を突き詰めるならば、いざと言う時には人殺しは許容されるということになる。そんなわけがあるか。そんなこと許容してたら、それこそ社会は崩壊する。社会を舐めすぎである。

 はい?公約さえも否定していいのがれいわですよ?色んな意見があってこそ議論が深まります 本物の「多様性を認め合う政党」なんです
 こちらの方の理解によれば、れいわ新選組有権者との約束も平気で破る詐欺集団ということになる。それはもはや政党と言うより、単なるカルト集団だ。繰り返すが、そんなことはないと(まだ)僕は信じている。また後段の「多様性」云々は、人殺しの可能性を含めてる時点で無茶苦茶としか言えない。そうなると本当にカルト集団じみてくる。議論の深まりを求めるなら、せめて社会正義にかなった方向性の「深まり」を求めるべきだ。

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 大西つねきの「命の選別」発言は決して許されない。憲法の理念にもれいわ新選組の理念にも反する、明確な不正義である。れいわ新選組、およびそれを支持する人々こそ、まずもってこのような大西の不正義を厳しく批判し、否定するべきだ。同じ仲間だからと言って何をしても、何を言っても許されるというのは、私的な集まりであれば許されるが、仮にも二人の国会議員を有し、また今後も政党政治における活動を目指す集団が、そのように幼稚なふるまいをすることは決して許されてはならない。

 というか、いい加減相互に批判して、議論を深めるなり、自浄作用を発揮してくれ。当たり前のように差別主義者に居場所を与えるな。

 


※7/7 22:03 追記

 大西は当該の動画を非公開にしたらしい。が、謝罪等は無い。
 
 そしてこの間も「大西つねき関東事務局」を名乗る「れいわ新選組@東京4区・大田区🐾わくわく班」のアカウントが、大西擁護のために更に優生思想の流布に努めている。

【大西つねき】
悪意を持って、つねきの動画を批判して、きゃっきゃっしてる人達がおりますね
思考停止お疲れさまですつねきが何を思って、命の選別を、と言ったか
少なくても、批判する人達は選別される側なのかな、と個人的に思います。
【思想】
若者か高齢者
どちらの命を優先するの?
若者の時間は有限なの
お金投資したらいいか、って話じゃないの
コスト≠お金じゃない
コスト=その人の時間お金で人の時間を搾取してたら、今の政治と何も変わらない
だからどちらか選ぶなら、若者を優先したい!、って言ってるだけだよ、つねきは
【命の選択】
では、今、この瞬間、命の選択をされてる子供達がいることをご存知だろうか?
少なくても、命の選択をしない、など、土台無理な話である
自分か、他人か、どちらかしか生きられないとして、自分の命を簡単に捨てられる
それが、自己肯定を否定されてきた、今も死にたいと思っている子供達
 もう支離滅裂である。要するに、自分が楽しく生きるためなら負担になる奴は死んでも良い!という驚くべく幼稚なワガママと、冷酷非道の合わせ技ともいうべき「主張」をしているのだろう。政治の名に値しないのは言うまでもない。政治以前の問題である。
 「選別される側なのかな、と個人的に思います。」という発言からは、自分は選別される人間ではないと、どころか選別する側であるという選良意識が透けて見える。何様なのか。人様の生き死にを決定できるとなぜ思い込めるのか。
 「どちらか選ぶなら」とのことだが、そんな選択肢はどこにも無い。「どっちも」と答えれば良い。狭い主観的な思い込みに基づく愚劣極まる決断なぞ害悪でしかない。
 「命の選択をしない、など、土台無理な話である。」そんな極論に話を飛躍する意味が分からない。いま現在の状況は、高齢者か若者か、と言うほどに切羽詰まってるのか。そんなわけはない。介護労働等で疲弊した若い世代がいるならそれを救済すれば良い。その救済のためには介護される老人は死ねなどとは、飛躍しすぎて意味が分からない。
 「自己肯定を否定されてきた」生きるか死ぬかの話が唐突に個人的な承認欲求の話しに矮小化されている。逆に僕などは、こいつは人生舐めてんのか、飯も食えない電気も出ないガスも来てないような暮らしをしたことがないのか、と邪推する。
 「今も死にたいと思っている子供たち」そりゃ一定の年齢を重ねたら死ななきゃいけないと言われたら死にたくもなる。てめえでてめえの首絞めて何がしたいのか。

 根本的に他者との共存という視点が欠落している。ゼロサムゲーム的な発想でしか世の中を見れていない。そのくせ情緒的な一体感には甘えたがる。
 アホガキの戯言と一蹴すべきツイートなのだが、何しろこれが大西つねきの支持母体らしいというところが度し難い。こんなアホのためにいちいち心掻き乱されるのが嫌だ。

 
 この件に関しては、既に大石あきこ氏が非難し、対処を求めていくというツイートもしている。サクッと排除して二度とこんなことがないようにしてもらいたい。本当に身が保たんですわ。

7/7 23:05 追々記

 れいわ新選組からも公式に山本太郎氏の署名で見解が出た。が、例の如く対外的にケジメをつけるのではなく、内輪でなーなーに終わらせてしまっている。ハッキリとダメである。ダメ謝罪である。

 多くの人々の心の中にもあるであろう何かしらかの優生思想的考えに、
光が当たったことを今回はチャンスと捉え、
アジャストする責任が私たちにはあると考える。
 ここが特にダメである。何故ならここには、今回の大西の発言によって現に優生思想的な思想や言説が流布され、それを目にした様々な人々への加害の自覚がまるでない。失敗も成長の糧に!みたいなことを堂々と政党の代表が言っている。社会の中に存在しているという責任感がまるで感じられない。「社会は存在しない」のだろうか。どこまでも内輪ノリである。内輪の外側にいる人に対する責任感がまるで感じることが出来ない。

 責任というなら、社会に対して優生思想を流布するお墨付きを与えるバッジとして機能してしまった、その責任を果たすべきであろう。差別はまず否定されなければならない。包摂はその否定を経てからで十分だし、そもそもそれは政党がすべきことではなく、差別者が個人で勝手にやるべきことだ。そこまでお世話する義理が何故政党にあるのか全く理解できない。幼稚園か。
 大体政党の理念に反すると自分で言っているのだから、除名すべきであろう。それがアリになるなら、政党としての理念などれいわ新選組には存在せず、ひたすら情緒的な、外部からは理解し難くまた理解されるためのコミュニケーションも存在しない、非常に閉鎖的な情緒的承認共同体としてしか存在していないことを証しているということになる。そんなものは私的な趣味の集まりであったとしても、政党の名に値しない。
 

 非常に残念な帰結である、と言おうかと思ったがやめた。まあれいわ新選組なんてこんなもんよな、というのが正直なところだ。元々 伊藤 広剛 さんなどが繰り返し批判しているように、レイシズム・フレンドリー、ファシズム・フレンドリーな、極めて日本的な情緒的集団という理解しか僕は持っていない。情緒なんて、その集団の外部の人間には通じないものでもって集まった連中に、いくら理をもって説いたところでどうしようもない。せめて彼らが社会的に無となるような言論環境を整えていくのみだ。彼らには社会の片隅で死ぬまで傷を舐め合いながら内輪だけの優しさごっこをしていていただきたい。表に出てくんな気色悪い。
 以後追記はしない。流石にめんどくさい。大西の謝罪も出たようだが、謝るだけでケジメの行動が「これからは頑張る」なんだから本当に安倍自民と何一つ変わらない。優しさごっこなぞ自分の部屋でやってろ。
#政治
#山本太郎
#れいわ新選組
#人権問題
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massive #0530渋谷署前抗議
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総志
2020/05/31 04:50 2020年5月30日、渋谷警察署の警官による、クルド人男性に対する差別的な暴力行為に抗議するデモが行われた。

 僕自身は京都に住んでいるため、その場には行けませんでした。なので、ここではいくつかのまとめと動画のリンク、そしてマスメディアとしては初めてこの事件及び抗議を報じた、毎日新聞の記事のリンクをまとめておきます。一応、関連する記事を一つ前に書いたので、その後のことも最低限やっておこうと。

 

 まず当日のTwitter上での発信のまとめ 3羽の雀(Twitter:three_sparrows)さん作成 https://togetter.com/li/1529342

 次はNAVERTwitterまとめ。(cocochan さん作成) https://matome.naver.jp/odai/2159083202520162801 

 


 毎日新聞の記事(毎日新聞2020年5月30日 22時12分(最終更新 5月31日 00時02分))「「警官に押さえ込まれけが」 渋谷署前で200人が抗議デモ クルド人訴えに共鳴」  https://mainichi.jp/articles/20200530/k00/00m/040/179000c

毎日新聞による動画  https://youtu.be/WFWNG_JpyC0

 


 秋山理央さんによる動画(Youtubeチャンネル:  https://www.youtube.com/user/noxxx710/featured )「渋谷警察署のヘイトクライムへの抗議中に出た逮捕者について 石川大我参議院議員より報告 - 2020.5.30」 https://youtu.be/Ij-cQulwkqA

 

 デモに参加された方、またネット上で支持と連帯の声を上げた方、当日デモに参加された石川大我参議院議員、そしてマスメディアとしての使命を果たした毎日新聞の記者の方に、敬意を表します。(渋谷警察署に言われてやってきたTBSは恥を知れ。)

 そして、渋谷警察署はこのヘイトクライムを謝罪し、クルド人男性にヘイトクライムを行った警官を処罰することを強く要請します。そして、再発防止に取り組むとともに、それがどのような再発防止策であるかを市民に公開し、きちんと信頼回復に努めるべきです。当然、ここでいう市民には外国籍住民の方々も含まれます。あらゆる国籍の市民と、しっかりとした信頼関係を築くこと。そのためにも、誠実に、厳格に、深い反省と謝罪をもって、自らを変化させていくべきではないでしょうか。

 


 当日参加された、その場にいた、全ての皆さん、お疲れさまでした。どうぞゆっくり、心身を休めてください。

 

#差別
#人種差別
#人権
#ヘイトクライム
#0530渋谷署前抗議
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警察とヘイトクライム #0530渋谷署前抗議
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総志
2020/05/30 05:41 まずは以下のリンク先の動画を見ていただきたい。

Deniz Yenginwww.facebook.com

 

 フリージャーナリストの樫田秀樹氏(Twitter: @kashidahideki)のツイートによると、この動画は2020年5月22日の13時ごろに撮影されたもの。(https://twitter.com/kashidahideki/status/1264185548337410048?s=20)以下、更にその時の状況をクルド人男性から聞き取った話。

 「本人からの話は以下の通り。→場所は六本木六本木周辺。歯医者に行くため運転していて左折するためにいったん停車した時、目が合った警官に「お疲れ様です」と挨拶。すると、警察車両が後をついてくる。そこで男性は車を停めて、警官に「なぜついてくるんですか。私は歯医者に行く途中です」と説明。続」(https://twitter.com/kashidahideki/status/1264185550174482432?s=20

 「ところがその後も警察車両は後をつけてくる。そこで再び車を停め、警察に「何ですか。歯医者に行くだけですよ」と説明。近寄ってきた警官がマスクしていなかったため「近くに来ないでください」と言ったら、警官が「俺に勝つつもりか」と、そこから映像通りの行為が始まった。続」(https://twitter.com/kashidahideki/status/1264185552460365824?s=20

 「その間、同乗の友人2人は車外に出してもらえず、この行為を撮影したら、警官がやってきて(映像最後)何本か撮影した映像を消された。威圧行為は15分くらい続き、男性は首を掴まれたり、足を蹴られるなどの行為を受けた。その後病院で「捻挫」などの診断書ももらったとのこと。続」(https://twitter.com/kashidahideki/status/1264185554624671744?s=20

 「より詳しい情報を欲しいところだが、少なくとも何ら犯罪行為を犯していない外国人に、なぜここまで威圧的行為に及ぶのか。男性は近いうちに弁護士に相談したいとのこと。」(https://twitter.com/kashidahideki/status/1264185556147138564?s=20

 さらに suzuki #0530渋谷署前抗議(Twitter: @dabbawalasuzuki )さんの聞き取り。

 「クルド人が警官から暴行を受けた件で当事者から聞き取りました。場所は明治通り、広尾付近、管轄は渋谷警察署です。警察がついてきたから文句言って去ろうとしたらサイレン鳴らして止められて数十人の警察が来た暴行受けたそうです。当事者に違反はなかったそうです。
土曜日渋谷でデモやります。」(https://twitter.com/dabbawalasuzuki/status/1264443634230808576?s=20

  聞き取り可能な範囲で,、最初の動画を文字にしておく。

 0.09 警官A「そこ、そこでねぇ、手ぇ(腕とも聞こえる)回したから(不明瞭)」

 0.12 クルド人男性「なんもないから」

 0.14 クルド人男性「いや触らないで!」

 0.15 警官A「触るに決まってんだろ!」クルド人男性「なんもしてないじゃんじゃん!」

 0.17警官B「(聞取り不可。怒鳴り声)」

 0.18クルド人男性「や、なんもしてないじゃん!」警官A「(聞取り不可)に決まってんだろ」

 0.20警官A「手ぇあげたら暴行(聞取り不可)」クルド人男性「や、なんもしてないじゃん」

 0.23警官A「(繰り返し)力入れるな、力入れるな」クルド人男性「や、いいから、おっけー(不明瞭)、折ってるんで」

 0.32クルド人男性「いや、ちょっと話聞いて。いや、じゃあ、左止まる、左止まるから待ってて」

 0.36警官A「じゃあ座れ!座れ!」クルド人男性「(聞取り不可)動画撮ってる」警官A「(繰り返し)「座れ!座れ!」クルド人男性「いや、なんもしてない、なんも」

 0.40警官B「(物凄い勢いでクルド人男性に接近、威圧的に体を密着させクルド人男性の体を押しながら怒鳴る)座れよおい!」クルド人男性「なんもしてない!」

 0.42警官B「(クルド人男性の内もも、脛付近に蹴り、同時に胸倉を掴んで自分のほうに引っ張る。クルド人男性体勢を崩し地面に右ひざをつく)」クルド人男性「なんもしてないじゃん!」警官B「おら!いい加減にしろおら!」(その間警官Aは足を使ってぐっとクルド人男性を押さえつけている。)

 0.47警官B「(クルド人男性に顔を脅すように近づけながら)なめんなよおい!なめんなよ!」

 0.50警官B「(クルド人男性の首をヘッドロックするような形で揺さぶりつつ)なめんなよおい!」

 0.53警官B「(クルド人男性が動画を撮っている同行の者に話しかけるのに反応して、再び首をヘッドロックするような形で揺さぶりつつ)黙れおい!」

 0.54警官B「(ヘッドロックのような形で強くクルド人男性の首を拘束しつつ、顔を先ほどよりも更に近づけて)喋んなおい!」警官A「(カメラのほうを向きながら、写っていない別の警官?に向けて)状況(不明瞭)ある?」写っていない別の警官?「ない!」警官A「携帯(不明瞭。現逮ともきこえる)、それ、撮ってない?(取ってない?)」

 1.01写っていない別の警官?「それ(撮影者の)携帯取ってそれ」警官B撮影者に近づく。動画終了

 手塚空さん(Twitter: @aibery)の聞取り文字起こしも。

「警視庁の暴行傷害現場(5月22日)

 警「座れ!」
 男性「何もしてないじゃん」
 警「座れよ! 座れ!」
 (右側の警官が男性を蹴る)
 男性「何もしてないじゃん!」
 警「座れって言ってんだ」
 (路上に跪かせる)
 男性「痛い痛い」
 警「おい。いい加減にしろコラ!」

 ※FBより転載。問題あれば消します」(https://twitter.com/aibery/status/1264393425274564608?s=20

 さらに別の動画も。(樫田秀樹さんのTwitterより)


 この動画では、通行人が、警官に取り押さえられるクルド人男性を見て、「ヤバい」「こいつウケる」「ヤバくない?」と言う声、そして笑い声が入っている。クルド人男性は撮影者のほうを向いて、「助けてください!」「動画撮ってください!」と助けを求めるが無視される。それに対して、威圧的に「黙ってろ」「パトカー(不明瞭)で動画撮ってんだよ」と言う警官Aの姿も写っている。

 さて、どのようにお感じになられたであろうか。あなたも二番目の動画の通行人の人々と同じように、面白い見物だと感じ、笑ったであろうか。もしそうなら、僕は、笑うあなたと、笑う通行人と、そして暴力警官に対して、恥を知れと言おう。

 これは明白なヘイトクライムである。被害を受けたクルド人男性の話と動画にも残っているように、彼は何もしていない。言葉の強さや調子、更に横柄なその態度を見るならば、二人の警官こそ、暴行と強要の現行犯ではないか。そしてこの二人の警官がこんな暴力を働いたのは、結局、相手が外国人であったからとしか思えない。仮にクルド人男性の位置に日本人がいたとしたら、どうだろう。点数稼ぎに車を止めたりすることはあるかもしれないが、ここまで酷い態度と行動をとれたであろうか。また通行人も、あのように楽しそうに笑ったであろうか。

 警察をはじめとする行政機関が、外国籍住民に対して、このように人権を無視した差別的態度をとるのは目新しいことではない。

 例えば「制圧後にブラジル国籍男性死亡 警察官2人を書類送検」(https://www.kanaloco.jp/article/entry-215868.html)。

 また入管収容所内でも死亡事故はその数も悪質さも凄まじい。「入管施設での外国人死亡は餓死 入管庁「対応問題なし」」(https://www.asahi.com/articles/ASM9Z771QM9ZUTIL06Z.html

 仮に死亡するまでいかなくとも、入管の「管理」体制自体が被収容者の基本的人権を無視しているとしか思えない。「東京入管、コロナ対応めぐり「女性収容者」へ虐待か…シャワーに乱入、下着のまま独房に押し込める」(https://news.yahoo.co.jp/articles/40d8d1d13ea20d7a35311b076918c783ad9b4e69

 そしてそのように外国籍住民に人権を認めないという姿勢は、日本社会全体にも広く蔓延してしまっている。以下ヘイトスピーチ注意。Twitterで「外国人 権利」で検索しヒットしたものを適当に拾ったもの。リンクは張りません。

 「外国人が「嫌い」だから、日本人と同じ権利を与えない。 ではなく 外国人が「日本国籍を持ってない」から権利を与えない。」「先に言っときますが私は結構過激です。国に帰れってよく言います。これをヘイトスピーチと捉える人は話にならないのでフォローしないでください。迫害するつもりはないし、外国人の権利は認めます。ただこの国を陥れる為にきた/文句しか言わない害国人に帰ればいいのでは?って言いたいだけ。」「今でも、中国人に限らず、国益に沿わない外国人は帰国させて欲しい! 「税金払ってます」? 当たり前やん💢 権利を主張するなら、祖国で主張しなさい!って言いたい! 本当に外国人は要らない!」「種のことなど考えても無かった、日本人と日本に住む外国人、日本のルールで暮らしているところに、人種人種と騒ぎ立てて、人種を理由にルールを書き変えさせようとする、それこそレイシスト 日本人は日本しか母国がない、外国人は外国に母国がある、その大きな差異があるのだから、権利の差は当然」

 また元在特会会長桜井誠(高田誠)が立ち上げた排外・人種主義団体「日本第一党」は、その「政策」に「外国人の国民健康保険への加入を制限します」「外国人に対する生活保護を廃止します」「国内の外国人及び外国人団体による政治活動に対して厳しい罰則制度の制定に取り組みます」「外国人留学生に対する奨学金制度を廃止します」などを掲げている。そしてそれを選挙の場において繰り返し煽動し、外国籍住民を日本社会から排斥せよと、ヘイトスピーチを撒き散らしている。

 


 今回の出来事と、それを異なるアングルから撮影した二つの動画。これらは、日本社会のレイシズムゼノフォビア―そしてそこから必然的に出来するヘイトクライム―が、制度的にも社会的にも、非常に強固に、深く深く根を張り、広く浸潤していることを露呈させた。またこれらは、日本社会で言われる「グローバル化」や「多文化主義」という言葉など、非常に浅薄で不十分なものでしかないことを明らかにした。現代日本において現実にメジャーなものは、「排外主義」と「人種主義」である。そしてそれは制度的にも社会的にも、強固な基盤を持っている。

 警察とヘイトクライムは対立するものではない。それどころか、相互に支えあっている。警察がヘイトクライムを為し、ヘイトクライムが警察の「治安維持」の業務となるよう、社会が求める。それが今回の、この許しがたい不正義の現場から見える日本の未来だろう。

 このような不正義の現場ではなく、正義の現場、正義を為す現場をこそ、日本社会において出現させなければならない。真に「グローバル化」なり「多文化共生」を為すのであれば、正義の現場が不正義の現場を取り囲み、不正義を叩き出し、不正義の現場を正義の現場として、取り返さなければならない。

 これを投稿する2020年5月30日、今回の事件に抗議するデモ  #0530渋谷署前抗議 が行われる。15:00にハチ公前集合。詳細👇  ( https://twitter.com/dabbawalasuzuki/status/1264871422914002948?s=20 https://twitter.com/dabbawalasuzuki/status/1265707783879450625?s=20

 行ける方は是非足を運んでほしい。この動画を見るまで知らなかった、そんなあなたにこそ行って欲しい。当事者の方も来られるということなので、撮影に関しては顔をなるべく映さないようにしてほしい。しかしそれ以外は、色々と話を聞いてみるのも良いだろう(礼儀知らずにならない範囲で!)。それはちょっと恥ずかしい...という方も、大切なのは、とにかくその場にいること。その場にいることで、あなたも正義の現場を作り出している。そこにいることで、あなたは正義を実践しているのだ。

 京都から #0530渋谷署前抗議 に連帯します。熱くなるそうなので、皆さん水分補給と服装にはお気をつけて。初めてデモに行くよ!という方、もしいらっしゃれば、外国籍住民と共に在ることで、どのように街の景色が変わって見えるか、いつか何かしらの形で聞かせてもらえたらと、そう願います。
#社会
#差別
#人種差別
#人権
#ヘイトスピーチ
#ヘイトクライム
#0530渋谷署前抗議
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noteから移動その1

自己紹介
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総志
2020/05/29 04:08 総志と言います。読みは「そうし」です。もっぱらリアルとネットで、ヘイトデモに対するカウンター・プロテストを行っています。別段左翼でもなく(何らかの政党や党派、政治団体には属したこともなく、また今後も属したくないです。なんかめんどい。)、天皇万歳もやりたい人はやれば良いと考えています。つまり左翼というよりリベラリズムの考えに近いでしょうか。それが個人的な行為にとどまるならば、またそれが他者に危害を加えるものでないならば、それをするのは自由である。ヘイトスピーチ=差別の煽動に反対するって、つまりは人は平等に自由である、ということを、世間に可視的に示すことではないでしょうか。人と人の間に区別を設けるのは嫌です。皆が平等に自由な個人として尊重されるべきです。他人の出自や文化にグチャグチャ口出しするなと。お前の愛国心押し付けんなと。だから、誰かを下に見たり排除したりするリベラルな規範に反する行為には、文字通りこの身体でもって抗議する。ネットでもアカウントというヴァーチャルな身体でもって抗議する。とりあえずカウンターってそんな人で、僕もそんな人たちの一人です。口悪いですがNoteでは我慢できたら良いなぁ。。

 


 そんな人間なので、ここに書くのは政治や社会のことが多くなると思われます。まあ大学で政治学やってたので、その意味では、個人的には自然な感じもある。なんかムカついた時に落ち着いて整理するために書く感じかなと。備忘録、あるいは今の世の中の記録の一片として、書けていけたらと思います。

 

辺野古のこと

  去年の4月末に辺野古に初めて行った。那覇から辺野古までバスで移動、思った以上に遠かった。途中バスの車窓から、夕暮れに暮れなずむ米軍基地のフェンスをずっと眺めた。当たり前のように途切れることのないフェンス。その中に点在する嘘くさい小綺麗さの米兵のための家。いつかHPで見た米軍と地域住民との交流の写真も思い出した。夕暮れの暗さゆえの断絶感だろうか、バスの車窓からゆえの距離感だろうかとも思った。

  翌日の朝から座り込みに参加した。無論そのために来たのだ。しかしせいぜいが、沖縄の事柄は他人事ではない、少なくともその場に居合わせなければ何も言えまいと、特に難しく思い詰めず、とにかく行こうという事で来たのだ。

  ものものしく並ぶのは沖縄県警の機動隊員たち。サングラスをかけたり、マスクをしたりしている人が多い。座り込みに参加する市民もマスクやサングラスをしているが、これは機動隊がこちらをビデオカメラで撮影するためだ。機動隊が撮影されるのは仕方がない、公務中なのだから。しかし市民が機動隊に撮影される謂れはない。しかしそれをいくら言っても聞く耳は持たない。そういう場所になっているのだ。

  辺野古の米軍基地内に土砂を積んだトラックが入る、それを1分でも1秒でも遅らせるために人々は座り込む。しばしば暴力的な反対派という言われ方をするが、むしろ暴力的なのは機動隊の方だ。市民はただ座り込み、怒鳴ることさえ抑制的なのだ。非暴力不服従とはこのことかとうたれるようだった。

  土砂を積んだトラックが近づいてくるまでは、機動隊もゲート前に座り込む市民を排除せず、市民の側でも、歌を歌ったり思い思いにマイクを握って思いを語ったりする。皆当たり前の人々なのだ。普通に暮らす個人なのだ。そのことがよく分かる時間。大時代な左翼的アジテーションや右翼のような厳しさもなく、柔らかく、しかし強かな感じでそこにいる。それが大事なのだと思う。

  しかしそれもトラックが近づき、機動隊が座り込む市民を取り囲むまで。歌も語りもそれまでだ。

 

  僕は辺野古で最初のその時間、トラックがいよいよ近づいてきた時は、とりあえずどんなものなのか様子を外から見ようと、カメラを構えつつ座り込む市民とそれを取り囲む機動隊の間に立っていた。それでもまあ何とかなるだろうと思っての半端な位置だったのだが、思った以上だった。つまり、思った以上に、機動隊の排除のやりようは荒っぽかった。

  注意を無機質にする、即座に二、三人、多いと四人五人が一人の人を取り囲み、手首や足首、あるいはシャツの裾まで引っ張って、無理やり立たせる、あるいは持ち上げ、あるいは引きずる。市民は座り込んでいる、暴力など振るうはずもない、機動隊員は立ってそれを無理矢理に引っ張り上げる。

  驚いた。これは本当に、酷い。警察がこれをやるのか、こんなにも酷く荒っぽく市民を扱うのか。僕もカメラを撮ろうとするが、機動隊員が押しまくるので、まともに立っていられない。僕はただそこに立ち、カメラを持ってるだけなのだ。それが前に後ろに押しまくられる。輪から出したいのかそれとも押し込めたいのか、きっと誰もそれを知らない。ただひたすらに市民を排除せよ、道から退かせよ、それだけなのだろう。そんなふうだから僕は押され思い切り倒れ込んだ、手をついて、座り込んでる人々の上に。

  何とか人々の隙間を縫って手をついたけれど、もう揉みくちゃで無茶苦茶で、足は機動隊員の足の間に挟み込まれて、立ちようもなく、そのままの姿勢でいるしかない。機動隊員は何も言わない。謝罪などない。しかし座り込んでいた人たちは、大丈夫かと、倒れ込んだ僕に声をかけてくれるのだ。こちらこそすみません、大丈夫でしたか?と答えるだけだ。見ず知らずの、いかにも初めてやってきたヤマトの人間を気遣う人々。それを文字通り上から睥睨しつつ手を出し引っ張り排除する警察。これは何だろうかと目眩がするようだった。

  結局僕はそこから更に市民の排除が進む中を、どうにかこうにか立ち上がり、ゲートの向かいの歩道に戻ることにした。排除された市民は、ゲート前向かって右側の歩道の一角に、文字通り「収容」される。わざわざ柵が用意してあるのだ。排除した市民が再びゲート前に戻ることを阻止するためなのだろうが、市民が歩道の一角に閉じ込めてその移動を封じるなど、如何なる法的根拠もない。機動隊員に聞いても答えない。これは最早法治国家のやり方ではない。

  そしてまた2回目のトラックによる土砂搬入。土砂を積んだトラックが全て米軍敷地内に入り、積んだ土砂を下ろして出て行くまで、歩道の柵内に市民はずっと閉じ込められる。そして解放されてまた次の土砂の搬入に備えて座り込む。無意味と嗤えるか。これほどまでに徹底して非暴力を貫き、しかも不服従を実践する人々を。きっとそれはどんな政治的理念より硬く強い。

  2回目、僕はやっと座り込んだ。正直に言って怖かった。想像してみてほしい。こちらは座り込んでいるところに、ガタイの良い機動隊員が、数名がかりで肩を引っ張り手首を掴み挙句には足首を引っ張られ引きずられるのだ。僕などはまだ良い、若く、多少痛い目にあってもへっちゃらだ。しかしここにきている人のほとんどは年配の方ばかりだ。少しのことが命取りになりかねない。その覚悟をもってここに来ているということだ。

  排除。頑張ったつもりだ。1秒でもと。隣に座る人々と腕を組む。前の人の腰のあたりに手を置く。文字通り、僕は連帯していた。けれどそれは脆い。あっという間に排除されてしまう。

  閉じ込められる経験。柵の中だ。出られない。トイレにも行かせてもらえない。4月末だから沖縄はもう十分に暑い。両腕はすぐに日焼けしてしまい真っ赤になる。水やお茶は柵の外から差し入れられるが、それでもたくさんの人を一箇所に囲うのだから、息苦しく、閉塞感は凄まじい。

  僕はこれに怖気てしまった。この閉塞。どれだけ目の前の警官に問い詰めても、全く要領を得ない。どうなってるのかと問うても答えは返らない。壁に話しかけてるのと同じだ。しかしそれは警官なのだ。きっと那覇の街中や僕の住む関西の街中なら、礼儀正しく、きちんと法律に則って、基本的には振る舞うはずの警官なのだ。これは何なのか。何故こんなことがありうるのか。この閉塞が法の下に行われている、行われうる、それが許容されてしまっている。そのことは、自分でも驚くほどに恐ろしい感覚だった。

  そして次の日、最初の座り込み、僕は参加出来なかった。前日の閉じ込められの閉塞感に、足がすくんでしまった。せめて外から出来ることを、と、水などを持っていくのを手伝った。

  この日は歩道に沿って、柵に加えて機動隊のバス、いわゆるカマボコが3台ほど並んでいた。異様な光景だった。カマボコの向こうで市民が移動を制限されている。そのカマボコから、機動隊が休憩のためか出入りする。クーラーをつけるためかエンジンはつけっぱなし、排ガスに頭痛を覚える人もいた。

  沢山の人々がそれでもいるのだった。水を運ぶ人、機動隊に何とかトイレの人だけでも出すよう説得する人、カメラを撮って状況を広く全世界に伝えようとする人。皆が必死だった。再び、目眩に襲われるようだった。僕は閉じ込めの外からワタワタしているばかりだ。それでもここにいる人々は、市民は、諦めることをしない。閉じ込めが解けて、しばしの休憩の後、また、座り込む。

  僕は今度は逃げられないと覚悟を決めた。恐怖に自ら飛び込むことにした。勇気などではない、人々の勇気への共感でもない、もっとみっともない、後ろめたさからだった。これは、僕は、逃げてはいけない。このまま外から何かやった気になってはいけない。人々と共にあらねばならない。でなければ僕は、自分で自分が許せない。だから2日目の2回目の座り込みに、僕は参加することにした。

  トラックが来るまではいつものようにマイクが回される。その日はアメリカの退役軍人による平和団体、Veterans For Peaceの人々がマイクを手に取っていた。一人、日本語な達者な方がいた。その方が仲間の語りを通訳し、自身もまた、仲間とともに、目の前の若い機動隊員に語りかける。

  たとえ命令であっても、それを君達はきっと後悔する。私たちがそうだった。私たちもこの沖縄の米軍基地にいて、戦争に行った。そしてそれは今もまだ、傷となって残っている。こんなことはやめなさい。命令に従うことは、あなた方を守らない。

  それは素朴な語りだ、けれどその言葉が語られる痛みの記憶を、自らの身に背負った個人の、切実な語りかけだった。

  そして歌が歌われる。座り込め、ここへ、そう決意を込めて皆で歌を歌う。また、隣の人々と腕を組む、前の人の腰のあたりに手を置く、皆で皆に気を配る。相変わらず恐ろしかった、ふたたび乱暴に扱われ、僕は閉じ込められるだろう。しかし、しかしなのだ。このしかしが僕には新しかった。しかし僕は、僕たちは、ここにいるのだ。ここにいて、生きていて、これまでを生きてきて、それぞれの思いと記憶を抱いて、ここに生きているのだ。それは、どれほど不条理な力の行使によっても消し去れない。この事実の積み重なりが、非暴力の不服従の行動が、事実工事を遅らせ、政府の決定の無理を暴き立てている。しかもそれは無名の個々人の小さな行為、いや、行為でさえない、ただそこにいるという事実によって、為され続けているものだ。

  去年の年末、辺野古の工事中止をホワイトハウスに求める署名が、20万人を超えて今もまだ署名され続けている。これもまた、小さな個々人の小さな行為の積み重なりの成果なのだ。状況は変わる。よく変わることもあれば、悪く変わることもある。辺野古には遂に土砂が投入された。海の埋め立てが始まった。しかし、人々は今もなお、辺野古のゲート前に座り込み、海上でも、カヌー隊による抗議が続けられている。そして辺野古署名を通して、全国の人々が、辺野古のことに更に関心を寄せている。各地のスタンディングによって、辺野古基地建設反対の意思が示されている。それは沖縄にルーツを持たない、僕のような個人によって、更に広がり続けるだろう。

  ここには理念も倫理もない、もっと素朴な、単なる個人がある。僕もまたそのような個人だ。恐怖を感じ、座り込むのを躊躇いながら、しかしやはりそうせざるを得ないと、酷く足をもつれさせるようにして尚たしかにNOなのだという、そんな個人であるのだ。閉じ込められたら閉じ込められたことを伝えよう、恐ろしければ恐ろしかったことを伝えよう、そしてそんな理不尽があることを伝えよう。そうして、僕らは見ず知らずの人々と腕を組み、脆さを抱え込みながらも、断固としてここにあり続ける。基地などは僕らの生存に必要ない、僕らの生存の邪魔をするな、と。

 

  無論、僕という個人は本土の人間であり、沖縄にルーツがある人々とは異なり、歴史的にそして現在時にあっても尚、沖縄に加害をなす側である。それ故に僕が簡単に沖縄と連帯をなすと言うのは、本当はとても難しいことだし、何より実際に辺野古に座り込みを続けている多くの沖縄にルーツを持ち住み続ける人々からすれば、全くもって分かっていないと言われるかもしれない。それくらい僕は、いや僕たち本土人は、沖縄を語る言葉を、語る資格を、考えてこなかったのだと思う。

  だから僕は沖縄を語る資格と言葉を持たないと知った上で沖縄の辺野古に実際に行き、そこで感じたこと考えたことを書いたのだ。それは所詮何者でもない個人の一人語りに過ぎず、当然騙りと謗られても仕方がない。しかしその本土の個人の語りが極小である今という時にあっては、それを積み重ねて、ここが違いここを直すという試行錯誤、失敗の積み重ねこそが大切なのだと思うのだ。いつか正しい語りと資格が沖縄と本土の間で作られていくだろう。それを信じ、そのための捨て石として、本土人である僕はここに、辺野古で語り辺野古を語る言葉を残しておく。