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井上総司/ANTIFA

津島佑子『狩りの時代』


まず驚くべきなのはこの遺作となった作品、特に障害者に対する差別を主題とする作品が、2016年のやまゆり園事件以前に書かれたということだ。それを受けて書かれたのではない。それが起こる以前に書かれたということ。それはつまりこの作家が、如何に時代の空気を鋭敏に感じ読み取ることが出来ていたかということを証し立てるものだろう。そしてそれはまた、あの事件が、私たちが作家と同じく、この時代の空気を感じ読み取り何かしらの対策をしていたならば、防ぐことができていたのではないかということでもある。

 

ご存知の通り、やまゆり園事件は2016年7月26日に発生したヘイトクライムだ。単純な殺傷者数においても恐るべきものであり、何よりその動機には障害者をこの社会の「不適格者」と見做し、むしろ死を与えることこそが良いことなのだという、ナチの優生学の発想そのものである。しかも犯人はそのナチの優生学を知らなかったという。そのことが意味するのは何か。私たちの住むこの日本社会は、ナチの知識なしにナチが行ったことを行いうるということだ。そしてそれはつまり、私たちが当たり前に暮らすこの社会の空気は、おそらく驚くほどナチスが生まれたドイツの空気と似通ったものとなっているのだろう。

 

このような現在に際して、それを危機と認識するためのアプローチは二つあるだろう。一つは単純に歴史を学ぶこと。歴史を学ぶことで、危険な過去と現在との類似性に気づき、何かしらその危機を回避するために努力することだ。そしてもうひとつは、想像力を用い、それによって私たちの暮らすこの現代の空気を凝縮させ、結晶させ、一編の物語として提示することで、多くの人々が気づかなかった時代の空気の危機を可視化させること。津島佑子が試みたのはまさに後者ではなかったか。そしてその正確さこそが、結果として、津島の遺した物語を、直後のヘイトクライムへの予言となってしまったのではないか。

 

 


亡くなった障害を持つ兄、そしてその妹。その妹の耳に「フテキカクシャ」「アンラクシ」「ジヒシ」という言葉を囁きかけた親族の誰か。その言葉がやってきた由来を辿ることが即ち家族の歴史を辿ることであり、日本の近代を辿ることであり、そしてそれは日独伊三国同盟によるナチス・ドイツと日本との親善と、そのために来日したヒトラー・ユーゲントを見学した家族の行いへの遡行をも意味する。この物語は、そのような遡行の記録だ。教科書話で習うような、どこか他人事の歴史ではなく、私が今ここにいるその理由を辿る遡行によって理解される歴史。しかもその歴史には、抜きがたく誰かを抑圧したという加害の記憶も含まれる。加害の記憶から辿られる私の隣に、その加害の対象となる兄がいる。この怒りと痛み。加害の歴史を遡行出来てしまう私への怒りと、加害の歴史を持ちながらも共に生きていきたいと願っていた私の痛み。

 


それは単なる記憶の遡行に留まることは許されない。素行する自分自身に対して、そのような立ち位置にあることを許せない。そうしてそのような素行によって見えてくるのは、差別はどこから来るのか、どのような関係性から生じ伝えられるのかということだ。本書で描かれるのはそのような遡行でもあるのだ。遡行による差別の理路の可視化。そしてまた、そのようにして生じる差別の理路が、どれほど私たちの当たり前の暮らしの直中にあり、引き剥がしがたく結びつき、まさに私たちの暮らしこそが差別の舞台として今ここにあるかということもまた描かれる。それは理路であるから理もなにもないズルズルベッタリの生活の論理とは別物であると思われがちである。しかしそうではない。むしろそのズルズルベッタリの直中にこそ、差別の理論があり、それを育てる土壌がある。私たちのそれへの無自覚こそが、差別の理路のもっとも重要な養分であるとは言えまいか。忘れること。なかったことにすること。口をつぐむこと。しかし差別の理路から発する差別の言葉は残響し続けること。

 


このように書くとそのような差別と生活というものを見事に重ね合わせる作者の力量への賞賛という風に捉えられてしまうかもしれない。それは確かにそうだ。津島佑子は間違いなく素晴らしい作家なのだ。しかしただそのように作家の力量を賞賛するだけではこの物語の強度の質を見誤るように思う。むしろ津島が本作を通じて描き切ったことは、まさに差別と生活というものが、これこのように分かち難く結びつき、「人間の本音」として、あなたも私も生きてある限りその隣に、ヒトラー・ユーゲントアメリカへの「あこがれ」を駆動因としつつあり続ける、というこの人間の現実なのだ。何事かに「あこがれ」、そしてその「あこがれ」を本来性や中心に据えることで、そこから外れるほかない誰かを、例えば障害者を、例えばユダヤ人を、中心に達することの不可能な「不適格者」として物理的に排除してしまう。それに乗っかる私たちとて、しょせんその「あこがれ」の対象と同一化など出来はしないのに、まさにその出来なさゆえに、過剰に「あこがれ」、過剰に「あこがれ」の対象が行うことを意欲的に行う。ことほどさように「あこがれ」は人を狂わせる。あるいは、人を憎しみと怒りの虜としてしまう。そしてそのような「あこがれ」ほど、私たちにとって馴染み深い、日常的な感情もないだろう。そう、それは日常なのだ。日常の中のごくごく当たり前の感情が、差別の理路への入り口として私たちのすぐ傍で、口を開き人々の頽落を待ち望んでいる。

 


差別は特異な特殊な個人が行うことではない。歴史からの声としてそれは私たちのただの生活の中に常にこだましつづけている。いつまでも消えきらない残響のような執拗さでもって、その言葉は回帰し、あなたの口からもその響きを放ってしまう。あなたもまたその響きの基となり、残響の一部となる。なってしまう。

 


その言葉。一度放たれた言葉。それは決して忘れ去られることはない。「でもあの言葉だけは消え去らない。忘れていたはずなのに、ひどい言葉を聞かされたという感触だけは残されていた。その痛みだけは忘れられなかった。」(p99)その言葉は言った側も言われた側もどうしようもなくその人生を変えてしまう力を持つ。憎しみと恐れと。その二つが胸のなかに重たい根のごとく張り付き食い込みそして私たちから何かを収奪し続ける。

 


これが現代だ。戦前戦後を通じて描かれる家族の物語は、そのまま現代の物語となる。そこに切断があるとするのが本来の戦後というものであったはずだが、私たちはそれを切断することができなかった。それを対象化することができなかった。それゆえにこそ、現代とは、戦前の忌むべき差別の言葉を切断し切ることも出来ずにその残響に毒されている時代なのだ。その残響が誰かに聞き取られ、そしてその残響に誰かが自らの口を合わせる。そうして新たに差別の言葉が放たれる。それが新たな残響となる。そしてその残響から新たな差別の言葉が放たれる。輻輳する差別の言葉。いつまでも消え去らない差別の言葉。怒りと恐れという毒を、その毒の恐ろしさを、知りもしないままに日常的な何事かとして当たり前に飛び散らせ続ける私たち。それに取り囲まれた私たち。否応なく憎しみと恐れに取り囲まれ浸潤される私たち。そのような私たち人間の物語。

 


想像力を用いて、現在という時代を凝集させ、起こりうる危機を見通すこと。一編の物語として結晶させ、この時代を私たちに読み取り可能なものとすること。そしてその危機を避けるための想像力を凝集させるための始まりの言葉とすること。津島が本書で試みたのはまさにそのようなものだった。そして期せずしてそれは現実に起こった事件を見通すかのようなものとして遺された。遺された言葉。憎しみと恐れに否を突き詰めるための言葉。物語。私たちの世界を覆う差別という憎しみと恐れの残響に満ち満ちた世界の中にあって、そうではない言葉を想像力によって模索し書き残し、そして遺された私たちがそれを読み直すこと。否というためにこそ。この現代という時代を想像力をも用いて把握すること。遺されてしまった私たちの闘いのために。ありとあらゆる生存のための闘争のために。

マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』


この世界に外部はないし、この先も後もない。ただひたすらに今ここが、平坦に、フラットに、滑らかに続いていく。そのような今。フィッシャーはそれを「資本主義リアリズム」と名づける。

 


抵抗がある。それは商品として売られている。快楽がある。それは商品として売られている。現実攻略法がある。それは商品として売られている。全ては資本の自己増殖へと結びつく。

 


資本主義。そう、問題は資本主義なのだ。それ以上の問題があるのだろうか。そのことに気づくまでに、いったい日本の「現代思想」の人々は何を喋っていたのか。僕にはそれが分からない。『資本主義リアリズム』の原著が出版されたのは2009年だ。そして本邦訳が2018年。この時間的距離が意味することを思わずにはいられない。イギリスでは既に09年に資本主義を批判的に問う本が出され、そして思わぬ反響を呼んだ。その反響がやっと日本に届いたのは、2018年だということ。もう一度言おう。この間日本の「現代思想」の人々は一体何をお喋りしていたのか。

 


「「諦め」の常態化に抗うーあとがきに代えて」で訳者が述べる通りなのだ。「いまさら資本主義を直接攻撃するなんてベタじゃないですかね?まさしくこの物分かりの良さを装った挫折感は、「資本主義リアリズム」の基調に他ならない。ベタに夢を見ないゆえに絶望しない私たちは、この現代社会を生き抜く力をかろうじて身につけてきたのだが、新しい未来を構想する力はそのうち、見えないどこかへ委託されてしまったのではないだろうか。」(p.202-203)

 

 

 

私たちが生きるこの今を、「資本主義リアリズム」と名づけてみる。そうすると極めてクリアに私たちが私たち自身を閉じ込めるこの状況が見えてこないか。「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。これが資本主義リアリズムの意味するところだ。「この道しかない」。そしてこれが資本主義リアリズムの標語だ。ここにはこれしかなく、そしてそれは世界の終わりまで続く。だから私たちの生は、何か根源的に(即ちラディカルに)新しいことを想像し構想し創造し実践するなどということにその時間を割いてはならない。それは端的に無意味である。私たちが私たちの生をより良いものとしたいのならば、するべきことは一つー適応せよ。

 


そのようの資本主義リアリズムの直中でのこの生のありようを、フィッシャーは様々な素材を用いつつ、極めてクリアに抉り出していく。シニシズム再帰的無能感、鬱病的快楽主義、市場型スターリニズム。などの概念を創造しながら。

 


しかしではこのこれとは何なのか。私たちはもはやそれを名指す言葉すら持たなくなってしまっている。こんな馬鹿げた目標設定、ブルシットなだけだ、そうシニカルに口の端を引き攣らせながら従順に仕事をする。様々な自己啓発書に書かれた賢者の教えに従いつつ、賢く働くよう自身をマネージする。しかしではこれはなんなのか。この生を規定するのは単に私なのか。私の意志か。私の選択か。私の自己責任か。しかしそもそも「この道しかない」のに、私の自己責任とは、私の選択とは、私の意志とはいったい何なのか。

 


ティーンエイジャー同士の発砲事件があたりまえとなり、病院では病原性の強い超細菌が培養されるようになった、崩壊状態にある社会圏では、結果(効果)がその構造的な原因と結びつけられることが必要だ。「大きな物語」に対するポストモダン思想の疑念とは反対に、私たちは、これら問題が孤立した偶発的なものではなく、むしろ単一の体系的な原因による作用だということをより明確に示さなければならない。その原因とは、資本である。私たちは初心を貫き、存在論的にも、地理学的にも遍在化している資本に対して、戦略を立てなければならない。」(p.191-192)

 


私たちが私たちの生をより善いものとするために、四六時中どこからともなく響いてくるより効率的により成長をより成功をより給料をよりリア充をというその声から身を引き剥がすこと。そしてその声に対してアイロニカルに距離を取るシニシズムをも捨てること。このこれへの諦念を捨て去ること。そして私たちを取り巻くこの「大きな物語」に「資本」と名をつけ、その世界観を「資本主義リアリズム」と名指すこと。そこから始めることだ。

 


しかしそう構えて読む必要はないかもしれない。僕自身はこの本を、もっとカジュアルに、僕自身が大学生の頃からずっと感じていた就活だの自己の成長だの成功だのという掛け声への違和感を極めて明瞭に形にしてくれた、ある種の物語のようなものとして読んだところがある。多分そういう違和感は皆が感じていたのではないか。僕はその程度が極めて強く、結果、学生時代の僕を知る人は知ってるように留年を繰り返すことになったわけだが。とはいえこのような違和感は普遍的であると思う。誰も本当の本当に心の底から、キラキラ自己啓発本に書かれてあるようなキラキラした感じで仕事をしているとは思えない。そしてではそのキラキラ感を笑うとして、しかし単にそれを冷笑するだけで済ませて良いか。それをシニカルに笑ったところで、何一つこの現実は変わりはしないのに。何も変えないシニシズムに何の意味があるのか。結局、今現在の日本においては、「資本主義リアリズム」の中で取りうるメジャーな態度というのは二つなのだと思う。即ちキラキラと過剰適応すること、あるいはシニカルに冷笑しつつ適応すること。結局適応するしかないのか?そうではなかろう。と、僕はずっと思ってきたし、それにかなりの程度従いつつ、しかし生きるために妥協したりして、今こうしてこの本を読んだ感想をつらつらと書き、SNSにそれを投稿している。

 


私は、この世界、この「資本主義リアリズム」を拒絶し、その外に出たい。その外で、本当の意味で先に進みたい。

 


最後に付け加えること。本書の著者マーク・フィッシャーは2017年に自ら命を絶った。重い鬱病を患った末とのことだ。私たちはフィッシャーの言葉を読み、その言葉とともに、その言葉の先に進むのだ。

2011年3月11日以後

ブログの方にもアップしてたかなと思ったらアップしてなかった、2021年の3月11日にFacebookに上げた文章を改めてこちらにも上げておく。3.11以後をどんな風に生きたか。91年に生まれた個人の私的な記録として。

 

 

 

10年前の3月11日、僕は山口に帰省していた。大学1回生の春休みだった。

当然揺れは感じなかった。ニュースで知ったのだと思う。地震の直後のことは覚えていない。

覚えてるのは津波の映像。後で調べて、恐らくは名取川上空からの空撮の中継映像。畑や道路がある土地を、真っ黒い津波が覆い尽くしていく。元は家であったはずのたくさんの瓦礫が流されている。車が流れている。その中に人がいることを想像した。

ビニールハウスを津波があっという間に飲み込む瞬間が忘れられない。ビニールハウスなんて、それこそ何処にでもある当たり前のもの。しかしそれが壊れたり津波に飲み込まれたりするなんてことを、これまでの生涯で一度たりとも考えたことはなかった。それが起きている。日常というものが、脆弱で当たり前ではないという現実が、杭になって、上から下へと突き刺さるようだった。

夜になって、気仙沼が火の海になっている映像を見て言葉を失った。こんなことが本当に起こるのか。これが現実なのか。映画か何かじゃないのか。こんな風に町の広範囲が、炎に包まれるなんて。空襲がこんな風だったのだろう。現実離れしていた。

原発があんなことになるなんて思いもよらなかった。というより、そこに原発があることも知らなかったし、そもそも原発の存在そのものを意識したことがなかった。

3月12日、原発の一号機建屋が吹っ飛んだ映像を見た時のことが忘れられない。日本は終わる、と本気で思った。今自分が山口にいて、流石にここなら大丈夫だよな、と、考えていた。そしてそれも何の根拠もなく、一体何がどうなるのかわからないままに、とにかく終わった、と感じた。兄が東京にいた。母親にすぐに兄に電話したほうが良いと言った。東京から離れたほうが良い。これは本当にヤバい。しかし兄は冷静に大丈夫だと言っていた。どちらが正しいのか、何年経っても分からないのではないか。

そこから刻一刻と変わりゆく原発の様子をひたすらテレビで眺めていた。祈るように。早く注水してくれ、早くヘリから水を落としてくれ、早く消防車で放水してくれ。そう祈っているうちに、さらに二つの建屋が吹っ飛び、原発メルトダウンし、人が住めない土地がこの日本に、現実として生まれてしまった。

3月11日に僕のそれまで知っていた日常は壊滅した。二度と戻ってきようのないものになった。なんとなく普通に大学行って、何となく普通に地方公務員にでもなって、何となく普通の日常を送れれば良いと思っていた。それは不可能になった。いや、不可能になったのではない。僕自身がそれは不可能なのだと確信してしまった。震災と原発事故が僕の日常を絶対的に切断した。その切断以後、一体どんな風に生きれば良いのか分からなくなった。

京都に帰ってからもずっと何も出来なかった。授業に行けない日が増えていった。深夜にウロつく習慣がついた。自分の知る街並みが津波に飲まれる映像を想像した。眠れないまま夜明けを迎えて、結露に濡れた窓ガラスを、悲哀の感情と共にじっと見ていた。言葉にすることができない悲哀と憂鬱と絶望が居着いた。必死で日常を繕いながら、しかし繕いきれない破れ目が生じている。それを閉じるために足掻いては、更に酷い有様になる。他人に共有することなど不可能だった。言っても分かりようがなかったろうし、今でも伝えられる気がしない。

自分が死ねべきであったのだと確信していた。誰かにとっての大切な人であった、震災で亡くなった人の代わりに、自分のような、誰にも必要とされないクズが、原発のようなものを黙認し、知ろうともせず、日常などというものに当たり前に浸かりきって、誰かの痛みを厚顔にも無視し続けてきた自分こそが、死ぬべきであったと。

10年経った。2011年から2、3年経って、カウンセリングやら心療内科やらに行くようになってうつ病と診断された。それは今も治っていない。自分こそが死ぬべきであるという確信から自由になるのに5年かかった。僕にとっての3.11以後はその時からやっと始まった。

僕の人生は3.11で決定的に変わってしまった。直接被災したわけでもないのに、知り合いが被災したわけでもないのに、変わってしまった。しかしそのことを嘆く気は無い。変わるべきであったのだと思う。

3.11以降、多くの人々が路上に飛び出し、それまでとは違う生き方を生きることを選んだ。僕は遠くからずっと眺めていた。アラブの春を見ていたから、日本でもそんなことが起きるのだと言うことが驚きだった。日常が切断されてその後に、こうして以前とは違う何かが始まる。それは、希望だった。しかし、僕はとりあえず、自分自身が死ぬべきであるという確信から自由になることで精一杯で、とてもその希望に追いつく元気はなかった。ひたすら自分を許容する根拠を模索するばかりであった。今はやっと、その人たちの背中を、何とかかんとか追いかけることが出来ている。

色々なことが変わらず、しかし変わったことも多くある。僕はやはり変わるべきであると思う。もうあんなことを黙認したくない。そのために声を上げること。声を上げ続けること。それも路上で。社会や世界に向けて、自分はこう思い、こう感じると、大きな声で叫ぶこと。不正義を許さず、痛みや怒りを沈黙させず、まっとうな社会であれと行動すること。

3.11を決して忘却してはならない。それは現実にまだ終わっていない。原発事故は未だ収束していない。それは過去になり切ることを拒絶する今である。だから今、ここで、その出来事を引き受け、自らの言葉で応答すること、声を上げること。それが僕なりの3.11以後の生き方だ。

2022年変わったこと、しかし継続もしてるように思えること

2022年がどのような年であったか。自分の考えが変わった、というよりは重点を置く場所が少し変わったと思う。しかしそれはまた恐らく2011年からずっと継続しているある種の衝撃の新しい展開であり変状でもあるとも思う。新しい。しかしあまり変わってないとも思う。その経緯をごく簡単に書く。あくまで自分のためのものであるから、これをもし仮に読む人があれば、ごめんなさいと先に言っておく。詰まらないことでしかないから。

 


断片集合存在論。というようなことをずっと思っている。直接には2014年頃からだと思う。円城塔が描き続けているような存在。私は様々な言葉によって成り立っている。さながらコードによって成り立つプログラムのように。むしろそのようなバラバラな断片が、たまさか何かの偶然で今このように形を取り、しかもこれまたたまさか知性を有し人格を持ち言葉を発し思考がどうしたと言うようになったのだというような認識。いつかこう思ったことがあった。僕は僕が嫌いだ。殺してやりたいくらいに嫌いだ。しかし死なないのは死に至る過程の痛みが怖いからだ。しかし僕が僕を嫌いだとしても、僕は僕の中にあるたくさんの言葉、主に本によって、時として人にそう言われたような言葉は、嫌うことはできない。それらは美しいし、善きものだ。だから僕が死なずに生きる理由は、痛みが怖いからという消極的な理由と、僕の中にあるこのたくさんの善き言葉たちを、これから後も残し続けていくためであると。そうしてつまり僕は他者の言葉によって成り立っているのだなと思った。私はたくさんの言葉の断片によって成り立つ構築物なのだ。そう思った前段に、伊藤計劃の言葉がある。「これがわたし。これがわたしというフィクション。わたしはあなたの身体に宿りたい。あなたの口によって更に他者に語り継がれたい。」(伊藤計劃「人という物語」)

それと倫理。この倫理への固執は単純に自分の性向というものでもある。そしてそれゆえに様々な現代の思潮に触れ影響を被りつつも、何か乗り切れないような感じを常に抱いていた。そこには倫理の居場所がないように思えて仕方がなかった。自由だとか解放だとか言われていても、その代わりに傷つけられる何物かへの視線が欠落しているように思えてならなかった。そのような視点を取り敢えず倫理と呼んでいるだけだ。だとしても、やはり倫理がないように思えたから乗り切れなかった。むしろ倫理は馬鹿にされ踏み躙られそれこそが最新であるかのように言われ続けていた。

 


斎藤幸平の脱成長コミュニズムはそのような自分のぼんやりした感じに新しい展開をもたらした。特に、自己抑制という言葉。資本主義によって経済と自然との間に矛盾が生じるということは、人間的なあまりに人間的な資本主義というものが、まさに自然という他者によって限界づけられていることを意味する。それゆえに自己抑制を行わなければならない。素材的な限界を超え物質代謝の矛盾を放置し続け資本主義を加速させ続けることは、私たちの生存を必ず掘り崩すことに帰結する。

無論斎藤の仕事はマルクス研究であり、いわゆる哲学研究とするべきではない。その上でしかし、そこにある実践的な倫理から、僕自身の思想に形が与えられたことは確かなのだ。人間は一元的な存在なのではなく、断片、つまりは自然的な素材的な事物に条件づけられつつ成り立っているというような直観。自己抑制。単に他者によって成り立つと認識するだけでなく、それによって限界づけられたり条件づけられたりしているという素材的な事実。

私は他者によって、他者の言葉によって、その印象によってその記憶によって成り立っている。しかしそれだけではない。私は人間ではない事物によって成り立っている。そのようにして人間は必然的に、この自然のエコロジーシステムによって条件づけられている。それが意味するのは、私は私の生存を持続していくために、自己抑制を欠くことは出来ないということ。ただ自身の成り立ちの断片を思うだけでなく、そこに自身が条件づけられていることを読み取り、自身の生存に欠かせないそれら断片を、どのようにして維持していくのか。そこに倫理の発端がありうるのではないか。

 


そのようなことを考えてるうちに、68年の思想=超人思想への違和感を覚えるようになった。特に小泉義之への違和感。生の過剰さを過剰さのままに肯定し、そのことによって現状を爆破するような小泉の思考に僕も影響を受けた。しかし同時に、正義やコレクトネスへの悪罵に対しては違和感を抱え続けていた。その違和感を批判へと転換するための根拠を得たのだと思う。そしてそれは日本の現代思想界隈でそれなりに人気な絶滅やポストアポカリプスへの賛歌とでも言うようなものへの違和感と批判でもある。妙に明るく楽しげに、絶滅の後にはパラダイスが来るかのような、人間の後のポストヒューマンでは更に快楽が得られるかのような、そういう多幸感溢れる過剰さ。それへの違和感を批判へと転換すること。さらに実際に社会正義や道徳を超えて匿名の無敵の人として振る舞うネトウヨやオルトライトへの嫌悪を、どのような視座から批判していくかということの明確化でもあるだろう(とはいえそれはあくまで僕の個人的な思考の原則としての発明であり、実践の場においてそんな七面倒な原則の説明とその後での批判なんてことはしない。これまで通りアホボケカスで良い)。

やはりこの方向性、過剰さの方向性超人化の方向性はダメではないかとぼんやり思い始めた。正義や倫理を否定し超克する超人というイマージュ。それはしかし現実にはあり得ないのではないか。それを現動化しようとする動きが軋轢と矛盾を生み、生存の毀損を生じさせ始めているのではないか。やはりなんだかんだで、正義や倫理は必要ではないか。

 


バトラー『非暴力の力』を読むことでそのような超人思想としての68年の思想は、乗り越えられなければならないと明瞭に意識した。根源的相互依存性というものの確認。人間存在の弱さ。その弱さの乗り越え難さ。あるいは乗り越えることで生じる生存の破壊。そしてそれゆえに私たちは他者に対して非暴力的に接しなければならない。生存の毀損。回避するための根源的相互依存性の認識。他者なしでは、他物なしではあり得ないこの私の生存。それを前提にした社会性、集団性、連帯のありようの模索。倫理の構築。

 


そしてまた斎藤さんのTwitter経由でなんとはなしに國分功一郎の著作を読み始め、更にその認識が深まる。中動態というもの、そしてスピノザ哲学の重要性。加速主義的な超人思想的なものを批判するためには、スピノザ的な自由の概念が非常に有効であるという直感。中動態。プロセスの直中にあるがゆえに様々に決定されている私という存在。自己決定至上主義への批判。これは立岩真也の仕事とも重なる。私は私のみによって決定をなすのではない、あり得ない。それを前提した上での「エチカ」。

 


そのようにして2022年、僕は新しいことを考え始めた。人間は根源的に条件づけられている。それは一つに人間対人間の関係において。例えば私が生後間もない時に、私をケアしてくれる他者なしにどうして生存が可能であるか。そしてまた一つに人間対自然の関係において。私を構成するこれら全ての素粒子はまさに自然だ。そしてまた何かを食べ何かを飲み呼吸し排泄することなしには生存は不可能だ。それゆえに人間は、人間的に、そして素材的に、それらの条件の上にのみ自身の生存を続けていくことができる。自由意志や欲望によっては乗り越え得ないものがある。その条件を否定し、真に自由な神のごときものになるのは不可能である。私は他者なしでは生きられない。私は世界なしでは生きられない。私は自然なしでは生きられない。そのようして私は様々な事物と、根源的相互依存性という関係を否応なく取り結んでいる。それゆえに、私が私の生存を続けていくために、倫理のことを始めなければならない。それは例えば自己抑制という倫理であるだろう。無論それだけではないだろう。しかしどちらにしても私の生存のために倫理が必要であることは間違いないのだ。倫理によってこそなされる生存の肯定。生存を肯定するための思考と実践の展開。

 


(しかしこれは単純に68年の思想を否定することではないだろう。むしろその中のある一つの潮流を発展させたものと思う。それは同じく68年に端を発する加速主義とは逆向きの潮流の発展だ。)

 


絶滅と超越ではなく、生存と持続へ。孤絶する超越性ではなく、連帯する脆弱性へ。

安倍の件に関する雑感

7/8は夕方ごろ家に着いた。LINEをチェックし、友達から何やらきており、開けてみて、安倍が撃たれた、もうネットでは犯人は〇〇人とか出てる、在日関連の勉強会するのに不安あるので警備に来てくれんか?とあった。そこで初めて安倍が撃たれたことを知った。Twitterでニュースを見、愕然とした。マジか。そしてまず思ったのはこれは二・二六じゃないかということだ。安倍が死んだこと自体は、まあ驚いたが別に悲しくもない。しかしこの事件を奇貨として、国家の統制が強められるのではないか、また安倍が殉国の英雄に祭り上げられ酷いことになるのではないか、という絶望感を感じた。

取り敢えず警備行きますと返事をした。それから行って、ぼんやりいて、終わって解散して帰宅した。現場に着いてから安倍の死が報じられた。帰宅してからも全く食欲がなく、体も頭も麻痺したような状態が続いた。安倍は撃たれた瞬間何を思ったか、死ぬ瞬間何を思ったか。そんな考えが頭の中をぐるぐる彷徨っていた。そんなことを考えてどうするわけでもないのに。何のショックなのか。今もよく分からない。繰り返すが悲しいとかそういう気持ちではなかった。ではなんなのか。よく分からない。

 

 

 

 


取り敢えず今言えそうなことをメモ代わりに書いて残しておく。ショックから立ち直るための試行でもある。事件をどう意味づけるのか。権力に都合の良い意味づけを拒絶するとして、ではどのようにして。

 

 

 

 


統一協会への批判としては三つ筋があるように思える。

一つには統一協会の主張への批判。自由・平等・民主主義を基軸とする現代社会をその根底から否定する主張というのはやはりよろしくない。ましてやそのような主張を行う集団と、自由・平等・民主主義を守る責任を負っているはずの国会議員が懇ろな関係を持つというのはさらによろしくない。その点において自民党、そしてその他の野党の中で、統一協会と関係を持ち続けるのは批判されても仕方がないだろう。

二つには統一協会の実践への批判。僕はリアルタイムでは知らないが、統一協会はかつて霊感商法合同結婚式などの、いわゆる「反社会的」な実践によって批判された。そして基本的にはこの手の実践は、現在においても継続されていると見て良いと思われる。であるならば、やはりそこは批判されるべきところだろう。そしてまた一つ目の筋と同じく、そのような「反社会的」な集団と政治家が懇ろな関係にあるというのはよろしくない。それが結果として統一協会の正当性を高め、様々な問題ある実践に箔をつける結果になるのだから。ここにおいても政治家は統一協会と関係を持つべきではないだろう。

三つには政教分離の原則。しかし僕はこれに関してはペンディングとする。単純素朴に僕はそれについて知らないからだ。しかしあえて何か言うならば、現在Twitter上でなされている政教分離に関するお喋りは、果たして本当に政教分離の原則と言えるものなのかどうかだ。単に宗教は政治に関わるべきではないとなると、様々な市民運動の場でリベラル左派と共に戦っている宗教者をも否定することになるのではないか。なのでそこに関してはもう少しきちんと調べて明確にしてから何か言うべきと思う。

 


以上三つは統一協会への批判だ。それは当然あるべきだしどんどんなされるべきである。しかし同時にそのような批判が、知らない間に単なる不当なバッシングに堕する恐れがないわけではない。なのでそのようなバッシングとなりうる種類の主張に対しても批判をする。しかしこれは統一協会への擁護ではない。そうではなく、正しく統一協会というカルト宗教を批判するための、避けるべき陥穽の提示というところだろうか。

一つ目はカルト宗教と宗教をごっちゃにしないこと。あくまで批判されるべきはカルト宗教であり宗教全般ではない。その実践において「反社会的」であるような宗教が批判されるべきであり、そうではない極めて普通な宗教が批判されるべきではない。僕がここで念頭に置いているのは、9.11後のイスラモフォビアだ。9.11後も、犯人がイスラムであると分かった途端にムスリムが纏めてテロリストであるかのように言われふざけた嫌がらせを受けることになった。この轍を踏むべきではない。批判されるべきはカルト宗教であり宗教全般ではない。宗教というだけで危ないと見做すような自身の偏見には注意深くあるべきだ。

二つ目は個別の統一協会の関係者への偏見は絶対に避けるべきであること。既に報道でも触れられるようになっているが、今回の問題には「二世問題」という側面がある。もし例えばある人が統一協会の子であるとして、それをもって何かあいつらも統一協会で危ない奴なのだ、というような偏見に基づく排他は行われてはならない。まさにそのような偏見が、「二世問題」が拗れる要因にもなる。また本人が統一協会のメンバーだとして、それをもってその人を危ない奴だ反社会的なのだと決めつけるのも避けるべきと思う。というより、今回の事件では撃たれたのは統一協会の側なのだ。そこを見誤るべきではない。

 

 

 

 


以下は更に雑感。

 


テロではない。犯人は動機を政治的なものではないとわざわざ言っている。であるならばこれはテロではなく怨恨による犯行である。つまり民主主義への攻撃とは言い難い。

 


安倍晋三を悼む気は一切ない。悲惨な最期ではあったが、だから何なのか。その上で、一般論として、殺害されるというのは為されるべきではなかった、とは言っておく。

 


今後の日本政治が心配だ。そこが一番この事件で絶望を感じた。二・二六かよとまず思った。しかしこれは後犯人の動機によってそうでもないということは分かった。しかし二・二六の事件が動機とは無関係に国家統制の強化の理由として使われたという点は覚えておくべきか。今回の件でも、早速野次排除がダメって判決が出たからとかパヨクの安倍批判が凶行を招いたとかふんわり若手知識人風味の奴まで出張って言い始めている。それに対しては批判と暴力は全く違うということを言い続けること。

またこの事件によって、安倍を殉国の英雄扱いし出すのではないかというのも心配。こちらに関しても動機の非政治性によってある程度緩和されてる感はある。しかし選挙後に三原順子安倍晋三は光になった!的なことをテレビで喚いていたのもあるので、まあやはり気をつけるべきではあるだろう。テレビの安倍礼賛報道もそのような英雄化に一役買うことになるのではないか。気色が悪い。

しかし事件からしばらく経って改めて世間の空気を見るに、思ったよりみんな何とも思ってない、ある意味では冷静でさえあるということを感じる。しかしそれはそれで不気味だ。こんな大事件があった(安倍の評価云々は抜きにして、大事件ではあるだろう)のに、それに何も感じないというのなそれはそれでどうなの?と。でその一方では参政党だのNHK党だのの選挙をおもちゃにしてるような類が国会に議席を得たりする。そして何かのイベント的なノリで安倍の遺体の乗った車列をスマホで撮影したりする。こういう空気に僕は不安を覚える。何かの底が抜けている。シニカルすぎないか?

 

 

 

 


ここまで書いても全く取り敢えずヨシ!みたいな感じがしない。いまいちよく分からない、というのが正直なところだ。まだ事件の全容が明らかではないこと、僕が宗教なり統一教会なりに詳しくないこと、などが理由としてある。とはいえ取り敢えず現時点で言えそうなことをメモしておくことは、それ自体が事件の記録になるだろう。

メッザードラ「戦争から脱走する」へのコメント

戦争から脱走する/サンドロ・メッザードラ

http://www.ibunsha.co.jp/contents/mezzadra01/


イタリアの左翼によるウクライナ侵略に関する論考。左翼であるならばかくあるべし、といったいったところ。「プーチンの戦争」を政治的、経済的側面から分析し批判する。日本のリベラルや左翼がNATOガーゼレンスキーガー!ばかりで何故かロシアに対する批判を全く行わないのとは雲泥の差である。左翼だからこそプーチンのロシアを批判しなければならないのに。


妥当な分析と妥当な批判、しかし一部僕はそう思わない、というところもあった。それは「脱走」の支援をすべきであり武器援助などはすべきではないというところ。


「脱走」の支援には賛同する。ウクライナが18歳以上の男性の国外への「脱走」を禁止したというのはやはり宜しくない。そこにウクライナ国家主義的傾向を見て取るのは正しい。


「「プーチンとでもなく、NATOとでもなく」、「抵抗するウクライナの人びとに武器を」。後者のスローガンは特に、強硬路線の政治家やジャーナリスト、軍国主義者のコメンテーターや熱狂的戦争ファンによってのみ支持されているだけではない。われわれに近しい人びともまた支持していた。当然、イタリアにいるウクライナディアスポラ(ヨーロッパで最も多く、ケア女性労働者をはじめ無数の人びとがいる)の間でも広がっている。私の考えでは、これは支持すべきスローガンではない。」


しかしでは現在ウクライナに留まりロシア軍に対して武器を持って、あるいは非武装で、抵抗し闘争している人々をどう捉えるべきか。それを単に国家主義に絡め取られた愚かな加害者あるいは国家主義に押しひしがれた哀れな被害者として、国家主義に一元的に従属された主体としてのみ見るべきか。僕は否と言う。ウクライナに留まり戦う人々は、何も国家の命令に従属するだけの受動的な主体ではない。彼ら彼女らはむしろ、国家の命令とはまったく別のものに貫かれて、そこに留まり闘争しているのではないか。別に国家を守るだなんて大きなことを言うのでなく、自分達の暮らす街、そして暮らしそのものを侵略以後も続けていくために戦っているのではないか。そしてこのような戦いを、果たして第三者である人間が偉そうにあれは国家主義に絡め取られた愚かな戦争であり今すぐ止めるべきであるなどと言うことが果たして妥当であるか。


戦争とは、何も国家の国家による国家のための戦争だけではない。それは人民の人民による人民のための戦争としてもある。つまりウクライナ侵略において立ち上がる人々の姿は、二重化されなければならない。一つは国家を守るための戦争としての国家主義的モメント。そしてもう一つは、個々人が織りなす共同性によって成り立つ生活を守るための戦争としてのパルチザン的モメントを伴うものとして。そのような二重化によらなければ見えてこないウクライナの人々の姿がある。


つまり、メッザードラの言う「脱走」(「戦争から脱走すること」)への支援と共に、「闘争」への支援が行われるべきと僕は考える。そしてその「闘争の権利」への支援として、他国から武器援助などの支援が行われるのは、妥当であると考える。無論そこには国家主義的モメントが伴うことは承知しつつ、しかしパルチザン的モメントを切り捨てるべきではないという判断からだ。敢えて汚いやり方を肯定する。それが僕の判断だ。(特に日本の反戦リベラルの人々に見られるウクライナは今すぐ降伏せよ抵抗するなという主張は、結局のところこのようにして敢えて汚いやり方を肯定することが許せないからではないかと思える。しかし考えてもみよ。そのような判断をすることによって守られる無垢さとは一体誰のものか。そしてその無垢さの代償に損なわれるのは一体誰であるか。反戦リベラルは結局自身の手の無垢さを守るためにウクライナの人々の生活と命を犠牲にしているようにしか見えない。表面的に守られた無垢さは、その前提に誰かの血と死を積み上げている。これを偽善と呼ばすなんと言うべきだろう。戦後の平和主義が意義のあるものであることは否定しない。しかしそこにはある偽善があった/あるのではないか。真剣にその理念を守るべきと考える人々は一度しっかり考えてみるべきと思う。)


そしてその先の、今現在の侵略を超えた先にあるものの展望においてはふたたび僕はメッザードラと考えを同じくする。


「無論、われわれは反プーチンである。NATOは問題の一部であって、解決策の一部になるとも考えない。けれども、この戦争の背景をなす、国際秩序および無秩序の再定義という混乱を極めるプロセスのさなかでは、われわれは思い切ってそれ以上のことをなさねばならない。」


ロシアを批判しウクライナを支援しNATOの東方拡大はあったとしてだからといってロシアが全面的に不正義であることには変わりがないとする僕ではあるが、しかし現行の国際秩序が完全に妥当なものとは考えていない。なるほどそれはロシアが勢力拡大を狙って戦争を仕掛けるような状態に比べればマシではある。しかしやはり全肯定の対象ではない。例えそれがアメリカによる覇権主義でなかろうと、つまり本来の意味での多国間主義に基づくリベラルな国際秩序であったとしても、僕はそれに対して批判的であることに変わりはない。それが普遍という名の暴力によって、グローバル内戦を行う政治制度である限り、それを全面的に肯定することはできない。だからこそ、僕もまた、メッザードラとは一部異なる経路を辿りつつ、「新たなるインターナショナリズム」に連帯する。「つまり、われわれが生きるこの「ぞっとするような」時代に応じた勢力、パワーを創出するという挑戦にほかならない。」

雨宮純『あなたを陰謀論者にする言葉』

陰謀論が左右を横断して組織化されつつある。一つの政治勢力として国境を越え形成されつつある。そのように感じる。しかしそれは何も急にどこからか降って湧いたものではなく、これまでも左右の政治イデオロギーにそれぞれに伏在していたのだろう。それが特にこのコロナ禍をキッカケとして一気に主流化されつつある。陰謀論と政治は昔から結びついていた。しかしそれはあくまで非主流的な、荒唐無稽なものとして退けられていた。今やそのように退けられたものが回帰しつつある。君主として凱旋しつつある。

というようなことを散歩をしながら考えていた。どうやら陰謀論について、ある程度知っておいた方が良いらしい。Twitterやnote.で陰謀論に関して良いことを書いてる雨宮純さんが本を出してると知り早速買ってみた。それが本書だ。

健康、癒し、自己啓発ー。これらの言葉だけであれば奇妙な感じを覚えることはないだろう。本屋に行けばこれらの言葉を冠する本は山のようにある。ありとあらゆるストレスに溢れた現代社会にあって、人々が健康や自己啓発を求め、それを助けにして日々をサバイブするのは、何も咎められることではない。それはそうだ。

しかしこれらの言葉が一体どこから来たのか。どのような発想を源流に持つか。そんな疑問を持つことは無いのではないか。そして本書で語られるのは健康や癒しや自己啓発の源流であり、実はそこにスピリチュアルや陰謀論が絡んでいるという、意外と知られていないしかし陰謀論全盛の現代では知っておくべき「裏面史」なのだ。

例えば自己啓発。実はその源流には、「ニューソート」というキリスト教系の宗教思想がある。曰く、この世界では神から人にエネルギーが流れ込んでおり、そのエネルギーを受け入れられるのは「正しい考え方」を持っている人であり、つまり「正しい考え方」へと自分の考えを変えることで神からのエネルギーも得ることができ幸せになれるのだ!このような考え方が自己啓発の源流にはある。「「考え方を変えれば目的を達成でき、ビジネスがうまくいく」という自己啓発の思想につながるものがここで出てきます。」(p147)

そしてこのニューソートの系譜を引き継ぎ現代的な自己啓発のベースをつくったのがナポレオン・ヒルである。僕もなんか名前を聞いたことはあるその著書『思考は現実化する』の中では、強く願いそれを繰り返し紙に書いたり声に出したりすることで潜在意識がアレして人生が望む方向に動くと説かれる。逆にネガティブ思考をすると現実もネガティブなものになる。

他にもこれまたなんか名前は聞いたことある『ザ・シークレット』という自己啓発書。この本はいわゆる「引き寄せの法則」の本で、要するにヒルの話と同じくポジティブシンキングしたら本当にポジティブな現実が来る、というもの。「『ザ・シークレット』では、「思考は磁石のようなもので、その思いにはある特定の周波数がある」「あなたは思考を用いて、周波数のある波動を放射している人間放送局のようなものである」「宇宙は特定の周波数であなたと交信している」という説明が行われ、さらにはそのまま「思考は現実化する」という言葉も重要項目として登場します。自己啓発としての主張が、ナポレオン・ヒルの頃からほとんど変わっていないのがわかります。」(p166)

そしてこの「思考は現実化する」ことの科学的説明のために使われるのが量子力学。なんかとにかく思考が量子をアレして現実も構成されるのだ!というために『ザ・シークレット』では量子力学が使われる。当然ながら量子力学はそういうものではない。化学の素人の僕でも分かる話なのだが、化学と言われると人はついうかうかと信じてしまうものらしい。科学の名でトンデモな話が正当化されるあたりも、スピリチュアルや陰謀論の特徴だ。「「宗教には抵抗がある、科学なら信じられる」からこそ生まれる現象です。」(p172)

元は宗教的だったものが、その宗教臭さを抜き去りつつ、量子力学なる科学っぽい言葉を加えることで、ある種の合理的な「自己啓発」として流通している。しかしどれほどその意匠をカジュアルなものにしたところで、やはりその根本的な発想はスピリチュアルなそれであることに変わりはないだろう。つまり、反近代的で反科学的な価値観を根本に持っている。にも関わらずそれを宗教としてではなく自己啓発として触れることで胡散臭さが脱臭されてしまう。宗教として「思考は現実化」すると言われると普通に胡散臭え!と感じる人でも、成功哲学として「思考は現実化する」と言われると何だかその通りな気がしてしまう。このようにして、知らず知らずのうちに、僕たちは胡散臭いものを、それと気づかず自身の生活に取り込んでしまっているのだ。

元は宗教やスピリチュアルの言葉だったものでが、様々に所と形を変えながら、それと気づかぬようにして、私たちの日常生活の中に漂っている。宗教などと言うと、自身の生活圏に全く関係がないと思う人がほとんであろう、しかし、実はそれに連なる様々な言葉を自身の生活のうちに取り込まれている。日常的に使うその「言葉」も、元を辿れば宗教的な発想に行き着くかもしれない。これらの言葉の歴史を本書は丹念に辿る。そうすることで、如何に僕たちの生活がスピリチュアルや陰謀論と重なり合っているかが示されるだろう。

そしてそのような日常の中のスピリチュアルが、話題のQアノン(最近は神真都Qとか名乗っている)という潮流へと繋がっている。僕がTwitterで観測してる範囲でも、突然親が反ワクチンやQに目覚めるという話は割と聞く。それもまた陰謀論と僕らの暮らしのゼロ距離ぶりを示す話であろう。普通にSNSを使ってるだけでも、Qに染まることが可能なのだ。ニュースやTwitterなどで見かけるそれら、でもあくまで他人事としてどこか無関係の他人の家のことであると考えているそれらが、実は僕らの生活に重なり合って存在しているということ。本屋の自己啓発書がその入り口になりうるということ。スピリチュアルと陰謀論が、明日の荒天と同じく極めて現実的な脅威であるということ。

陰謀論者になんて自分はならない、キチンと真面目に情報を調べリテラシーもそれなりにあると自認してる人ほど、実は肝心の陰謀論の中身については知らなかったりする。陰謀論とは何かを知らずに、それを避けることなど出来るわけがない。単にリテラシーを身につけるだけでは足りない。僕たちは陰謀論について知るべきなのだ。本書で語られる多くの「言葉」の歴史と流れを知り、陰謀論とは何かを知ることで、ようやっと僕たちは陰謀論者ではないと言えるようになるだろう。

最初は自己啓発に関心持ってあれこれ頑張ってたりした人が、オーガニックやヨガなんかを楽しんでいた人が、それらに付随する様々な言葉に導かれて、気がつくと立派なQアノンになっていた…。気をつけよう。現代日本には、「あなたを陰謀論者にする言葉」が、それと分からぬような形で、あらゆる場所に偏在しているのだ。本書は私たちにそのような事柄を警戒する目を持つよう「啓発」してくれるだろう。