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井上総司/ANTIFA

辺野古のこと

  去年の4月末に辺野古に初めて行った。那覇から辺野古までバスで移動、思った以上に遠かった。途中バスの車窓から、夕暮れに暮れなずむ米軍基地のフェンスをずっと眺めた。当たり前のように途切れることのないフェンス。その中に点在する嘘くさい小綺麗さの米兵のための家。いつかHPで見た米軍と地域住民との交流の写真も思い出した。夕暮れの暗さゆえの断絶感だろうか、バスの車窓からゆえの距離感だろうかとも思った。

  翌日の朝から座り込みに参加した。無論そのために来たのだ。しかしせいぜいが、沖縄の事柄は他人事ではない、少なくともその場に居合わせなければ何も言えまいと、特に難しく思い詰めず、とにかく行こうという事で来たのだ。

  ものものしく並ぶのは沖縄県警の機動隊員たち。サングラスをかけたり、マスクをしたりしている人が多い。座り込みに参加する市民もマスクやサングラスをしているが、これは機動隊がこちらをビデオカメラで撮影するためだ。機動隊が撮影されるのは仕方がない、公務中なのだから。しかし市民が機動隊に撮影される謂れはない。しかしそれをいくら言っても聞く耳は持たない。そういう場所になっているのだ。

  辺野古の米軍基地内に土砂を積んだトラックが入る、それを1分でも1秒でも遅らせるために人々は座り込む。しばしば暴力的な反対派という言われ方をするが、むしろ暴力的なのは機動隊の方だ。市民はただ座り込み、怒鳴ることさえ抑制的なのだ。非暴力不服従とはこのことかとうたれるようだった。

  土砂を積んだトラックが近づいてくるまでは、機動隊もゲート前に座り込む市民を排除せず、市民の側でも、歌を歌ったり思い思いにマイクを握って思いを語ったりする。皆当たり前の人々なのだ。普通に暮らす個人なのだ。そのことがよく分かる時間。大時代な左翼的アジテーションや右翼のような厳しさもなく、柔らかく、しかし強かな感じでそこにいる。それが大事なのだと思う。

  しかしそれもトラックが近づき、機動隊が座り込む市民を取り囲むまで。歌も語りもそれまでだ。

 

  僕は辺野古で最初のその時間、トラックがいよいよ近づいてきた時は、とりあえずどんなものなのか様子を外から見ようと、カメラを構えつつ座り込む市民とそれを取り囲む機動隊の間に立っていた。それでもまあ何とかなるだろうと思っての半端な位置だったのだが、思った以上だった。つまり、思った以上に、機動隊の排除のやりようは荒っぽかった。

  注意を無機質にする、即座に二、三人、多いと四人五人が一人の人を取り囲み、手首や足首、あるいはシャツの裾まで引っ張って、無理やり立たせる、あるいは持ち上げ、あるいは引きずる。市民は座り込んでいる、暴力など振るうはずもない、機動隊員は立ってそれを無理矢理に引っ張り上げる。

  驚いた。これは本当に、酷い。警察がこれをやるのか、こんなにも酷く荒っぽく市民を扱うのか。僕もカメラを撮ろうとするが、機動隊員が押しまくるので、まともに立っていられない。僕はただそこに立ち、カメラを持ってるだけなのだ。それが前に後ろに押しまくられる。輪から出したいのかそれとも押し込めたいのか、きっと誰もそれを知らない。ただひたすらに市民を排除せよ、道から退かせよ、それだけなのだろう。そんなふうだから僕は押され思い切り倒れ込んだ、手をついて、座り込んでる人々の上に。

  何とか人々の隙間を縫って手をついたけれど、もう揉みくちゃで無茶苦茶で、足は機動隊員の足の間に挟み込まれて、立ちようもなく、そのままの姿勢でいるしかない。機動隊員は何も言わない。謝罪などない。しかし座り込んでいた人たちは、大丈夫かと、倒れ込んだ僕に声をかけてくれるのだ。こちらこそすみません、大丈夫でしたか?と答えるだけだ。見ず知らずの、いかにも初めてやってきたヤマトの人間を気遣う人々。それを文字通り上から睥睨しつつ手を出し引っ張り排除する警察。これは何だろうかと目眩がするようだった。

  結局僕はそこから更に市民の排除が進む中を、どうにかこうにか立ち上がり、ゲートの向かいの歩道に戻ることにした。排除された市民は、ゲート前向かって右側の歩道の一角に、文字通り「収容」される。わざわざ柵が用意してあるのだ。排除した市民が再びゲート前に戻ることを阻止するためなのだろうが、市民が歩道の一角に閉じ込めてその移動を封じるなど、如何なる法的根拠もない。機動隊員に聞いても答えない。これは最早法治国家のやり方ではない。

  そしてまた2回目のトラックによる土砂搬入。土砂を積んだトラックが全て米軍敷地内に入り、積んだ土砂を下ろして出て行くまで、歩道の柵内に市民はずっと閉じ込められる。そして解放されてまた次の土砂の搬入に備えて座り込む。無意味と嗤えるか。これほどまでに徹底して非暴力を貫き、しかも不服従を実践する人々を。きっとそれはどんな政治的理念より硬く強い。

  2回目、僕はやっと座り込んだ。正直に言って怖かった。想像してみてほしい。こちらは座り込んでいるところに、ガタイの良い機動隊員が、数名がかりで肩を引っ張り手首を掴み挙句には足首を引っ張られ引きずられるのだ。僕などはまだ良い、若く、多少痛い目にあってもへっちゃらだ。しかしここにきている人のほとんどは年配の方ばかりだ。少しのことが命取りになりかねない。その覚悟をもってここに来ているということだ。

  排除。頑張ったつもりだ。1秒でもと。隣に座る人々と腕を組む。前の人の腰のあたりに手を置く。文字通り、僕は連帯していた。けれどそれは脆い。あっという間に排除されてしまう。

  閉じ込められる経験。柵の中だ。出られない。トイレにも行かせてもらえない。4月末だから沖縄はもう十分に暑い。両腕はすぐに日焼けしてしまい真っ赤になる。水やお茶は柵の外から差し入れられるが、それでもたくさんの人を一箇所に囲うのだから、息苦しく、閉塞感は凄まじい。

  僕はこれに怖気てしまった。この閉塞。どれだけ目の前の警官に問い詰めても、全く要領を得ない。どうなってるのかと問うても答えは返らない。壁に話しかけてるのと同じだ。しかしそれは警官なのだ。きっと那覇の街中や僕の住む関西の街中なら、礼儀正しく、きちんと法律に則って、基本的には振る舞うはずの警官なのだ。これは何なのか。何故こんなことがありうるのか。この閉塞が法の下に行われている、行われうる、それが許容されてしまっている。そのことは、自分でも驚くほどに恐ろしい感覚だった。

  そして次の日、最初の座り込み、僕は参加出来なかった。前日の閉じ込められの閉塞感に、足がすくんでしまった。せめて外から出来ることを、と、水などを持っていくのを手伝った。

  この日は歩道に沿って、柵に加えて機動隊のバス、いわゆるカマボコが3台ほど並んでいた。異様な光景だった。カマボコの向こうで市民が移動を制限されている。そのカマボコから、機動隊が休憩のためか出入りする。クーラーをつけるためかエンジンはつけっぱなし、排ガスに頭痛を覚える人もいた。

  沢山の人々がそれでもいるのだった。水を運ぶ人、機動隊に何とかトイレの人だけでも出すよう説得する人、カメラを撮って状況を広く全世界に伝えようとする人。皆が必死だった。再び、目眩に襲われるようだった。僕は閉じ込めの外からワタワタしているばかりだ。それでもここにいる人々は、市民は、諦めることをしない。閉じ込めが解けて、しばしの休憩の後、また、座り込む。

  僕は今度は逃げられないと覚悟を決めた。恐怖に自ら飛び込むことにした。勇気などではない、人々の勇気への共感でもない、もっとみっともない、後ろめたさからだった。これは、僕は、逃げてはいけない。このまま外から何かやった気になってはいけない。人々と共にあらねばならない。でなければ僕は、自分で自分が許せない。だから2日目の2回目の座り込みに、僕は参加することにした。

  トラックが来るまではいつものようにマイクが回される。その日はアメリカの退役軍人による平和団体、Veterans For Peaceの人々がマイクを手に取っていた。一人、日本語な達者な方がいた。その方が仲間の語りを通訳し、自身もまた、仲間とともに、目の前の若い機動隊員に語りかける。

  たとえ命令であっても、それを君達はきっと後悔する。私たちがそうだった。私たちもこの沖縄の米軍基地にいて、戦争に行った。そしてそれは今もまだ、傷となって残っている。こんなことはやめなさい。命令に従うことは、あなた方を守らない。

  それは素朴な語りだ、けれどその言葉が語られる痛みの記憶を、自らの身に背負った個人の、切実な語りかけだった。

  そして歌が歌われる。座り込め、ここへ、そう決意を込めて皆で歌を歌う。また、隣の人々と腕を組む、前の人の腰のあたりに手を置く、皆で皆に気を配る。相変わらず恐ろしかった、ふたたび乱暴に扱われ、僕は閉じ込められるだろう。しかし、しかしなのだ。このしかしが僕には新しかった。しかし僕は、僕たちは、ここにいるのだ。ここにいて、生きていて、これまでを生きてきて、それぞれの思いと記憶を抱いて、ここに生きているのだ。それは、どれほど不条理な力の行使によっても消し去れない。この事実の積み重なりが、非暴力の不服従の行動が、事実工事を遅らせ、政府の決定の無理を暴き立てている。しかもそれは無名の個々人の小さな行為、いや、行為でさえない、ただそこにいるという事実によって、為され続けているものだ。

  去年の年末、辺野古の工事中止をホワイトハウスに求める署名が、20万人を超えて今もまだ署名され続けている。これもまた、小さな個々人の小さな行為の積み重なりの成果なのだ。状況は変わる。よく変わることもあれば、悪く変わることもある。辺野古には遂に土砂が投入された。海の埋め立てが始まった。しかし、人々は今もなお、辺野古のゲート前に座り込み、海上でも、カヌー隊による抗議が続けられている。そして辺野古署名を通して、全国の人々が、辺野古のことに更に関心を寄せている。各地のスタンディングによって、辺野古基地建設反対の意思が示されている。それは沖縄にルーツを持たない、僕のような個人によって、更に広がり続けるだろう。

  ここには理念も倫理もない、もっと素朴な、単なる個人がある。僕もまたそのような個人だ。恐怖を感じ、座り込むのを躊躇いながら、しかしやはりそうせざるを得ないと、酷く足をもつれさせるようにして尚たしかにNOなのだという、そんな個人であるのだ。閉じ込められたら閉じ込められたことを伝えよう、恐ろしければ恐ろしかったことを伝えよう、そしてそんな理不尽があることを伝えよう。そうして、僕らは見ず知らずの人々と腕を組み、脆さを抱え込みながらも、断固としてここにあり続ける。基地などは僕らの生存に必要ない、僕らの生存の邪魔をするな、と。

 

  無論、僕という個人は本土の人間であり、沖縄にルーツがある人々とは異なり、歴史的にそして現在時にあっても尚、沖縄に加害をなす側である。それ故に僕が簡単に沖縄と連帯をなすと言うのは、本当はとても難しいことだし、何より実際に辺野古に座り込みを続けている多くの沖縄にルーツを持ち住み続ける人々からすれば、全くもって分かっていないと言われるかもしれない。それくらい僕は、いや僕たち本土人は、沖縄を語る言葉を、語る資格を、考えてこなかったのだと思う。

  だから僕は沖縄を語る資格と言葉を持たないと知った上で沖縄の辺野古に実際に行き、そこで感じたこと考えたことを書いたのだ。それは所詮何者でもない個人の一人語りに過ぎず、当然騙りと謗られても仕方がない。しかしその本土の個人の語りが極小である今という時にあっては、それを積み重ねて、ここが違いここを直すという試行錯誤、失敗の積み重ねこそが大切なのだと思うのだ。いつか正しい語りと資格が沖縄と本土の間で作られていくだろう。それを信じ、そのための捨て石として、本土人である僕はここに、辺野古で語り辺野古を語る言葉を残しておく。