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井上総司/ANTIFA

2022年変わったこと、しかし継続もしてるように思えること

2022年がどのような年であったか。自分の考えが変わった、というよりは重点を置く場所が少し変わったと思う。しかしそれはまた恐らく2011年からずっと継続しているある種の衝撃の新しい展開であり変状でもあるとも思う。新しい。しかしあまり変わってないとも思う。その経緯をごく簡単に書く。あくまで自分のためのものであるから、これをもし仮に読む人があれば、ごめんなさいと先に言っておく。詰まらないことでしかないから。

 


断片集合存在論。というようなことをずっと思っている。直接には2014年頃からだと思う。円城塔が描き続けているような存在。私は様々な言葉によって成り立っている。さながらコードによって成り立つプログラムのように。むしろそのようなバラバラな断片が、たまさか何かの偶然で今このように形を取り、しかもこれまたたまさか知性を有し人格を持ち言葉を発し思考がどうしたと言うようになったのだというような認識。いつかこう思ったことがあった。僕は僕が嫌いだ。殺してやりたいくらいに嫌いだ。しかし死なないのは死に至る過程の痛みが怖いからだ。しかし僕が僕を嫌いだとしても、僕は僕の中にあるたくさんの言葉、主に本によって、時として人にそう言われたような言葉は、嫌うことはできない。それらは美しいし、善きものだ。だから僕が死なずに生きる理由は、痛みが怖いからという消極的な理由と、僕の中にあるこのたくさんの善き言葉たちを、これから後も残し続けていくためであると。そうしてつまり僕は他者の言葉によって成り立っているのだなと思った。私はたくさんの言葉の断片によって成り立つ構築物なのだ。そう思った前段に、伊藤計劃の言葉がある。「これがわたし。これがわたしというフィクション。わたしはあなたの身体に宿りたい。あなたの口によって更に他者に語り継がれたい。」(伊藤計劃「人という物語」)

それと倫理。この倫理への固執は単純に自分の性向というものでもある。そしてそれゆえに様々な現代の思潮に触れ影響を被りつつも、何か乗り切れないような感じを常に抱いていた。そこには倫理の居場所がないように思えて仕方がなかった。自由だとか解放だとか言われていても、その代わりに傷つけられる何物かへの視線が欠落しているように思えてならなかった。そのような視点を取り敢えず倫理と呼んでいるだけだ。だとしても、やはり倫理がないように思えたから乗り切れなかった。むしろ倫理は馬鹿にされ踏み躙られそれこそが最新であるかのように言われ続けていた。

 


斎藤幸平の脱成長コミュニズムはそのような自分のぼんやりした感じに新しい展開をもたらした。特に、自己抑制という言葉。資本主義によって経済と自然との間に矛盾が生じるということは、人間的なあまりに人間的な資本主義というものが、まさに自然という他者によって限界づけられていることを意味する。それゆえに自己抑制を行わなければならない。素材的な限界を超え物質代謝の矛盾を放置し続け資本主義を加速させ続けることは、私たちの生存を必ず掘り崩すことに帰結する。

無論斎藤の仕事はマルクス研究であり、いわゆる哲学研究とするべきではない。その上でしかし、そこにある実践的な倫理から、僕自身の思想に形が与えられたことは確かなのだ。人間は一元的な存在なのではなく、断片、つまりは自然的な素材的な事物に条件づけられつつ成り立っているというような直観。自己抑制。単に他者によって成り立つと認識するだけでなく、それによって限界づけられたり条件づけられたりしているという素材的な事実。

私は他者によって、他者の言葉によって、その印象によってその記憶によって成り立っている。しかしそれだけではない。私は人間ではない事物によって成り立っている。そのようにして人間は必然的に、この自然のエコロジーシステムによって条件づけられている。それが意味するのは、私は私の生存を持続していくために、自己抑制を欠くことは出来ないということ。ただ自身の成り立ちの断片を思うだけでなく、そこに自身が条件づけられていることを読み取り、自身の生存に欠かせないそれら断片を、どのようにして維持していくのか。そこに倫理の発端がありうるのではないか。

 


そのようなことを考えてるうちに、68年の思想=超人思想への違和感を覚えるようになった。特に小泉義之への違和感。生の過剰さを過剰さのままに肯定し、そのことによって現状を爆破するような小泉の思考に僕も影響を受けた。しかし同時に、正義やコレクトネスへの悪罵に対しては違和感を抱え続けていた。その違和感を批判へと転換するための根拠を得たのだと思う。そしてそれは日本の現代思想界隈でそれなりに人気な絶滅やポストアポカリプスへの賛歌とでも言うようなものへの違和感と批判でもある。妙に明るく楽しげに、絶滅の後にはパラダイスが来るかのような、人間の後のポストヒューマンでは更に快楽が得られるかのような、そういう多幸感溢れる過剰さ。それへの違和感を批判へと転換すること。さらに実際に社会正義や道徳を超えて匿名の無敵の人として振る舞うネトウヨやオルトライトへの嫌悪を、どのような視座から批判していくかということの明確化でもあるだろう(とはいえそれはあくまで僕の個人的な思考の原則としての発明であり、実践の場においてそんな七面倒な原則の説明とその後での批判なんてことはしない。これまで通りアホボケカスで良い)。

やはりこの方向性、過剰さの方向性超人化の方向性はダメではないかとぼんやり思い始めた。正義や倫理を否定し超克する超人というイマージュ。それはしかし現実にはあり得ないのではないか。それを現動化しようとする動きが軋轢と矛盾を生み、生存の毀損を生じさせ始めているのではないか。やはりなんだかんだで、正義や倫理は必要ではないか。

 


バトラー『非暴力の力』を読むことでそのような超人思想としての68年の思想は、乗り越えられなければならないと明瞭に意識した。根源的相互依存性というものの確認。人間存在の弱さ。その弱さの乗り越え難さ。あるいは乗り越えることで生じる生存の破壊。そしてそれゆえに私たちは他者に対して非暴力的に接しなければならない。生存の毀損。回避するための根源的相互依存性の認識。他者なしでは、他物なしではあり得ないこの私の生存。それを前提にした社会性、集団性、連帯のありようの模索。倫理の構築。

 


そしてまた斎藤さんのTwitter経由でなんとはなしに國分功一郎の著作を読み始め、更にその認識が深まる。中動態というもの、そしてスピノザ哲学の重要性。加速主義的な超人思想的なものを批判するためには、スピノザ的な自由の概念が非常に有効であるという直感。中動態。プロセスの直中にあるがゆえに様々に決定されている私という存在。自己決定至上主義への批判。これは立岩真也の仕事とも重なる。私は私のみによって決定をなすのではない、あり得ない。それを前提した上での「エチカ」。

 


そのようにして2022年、僕は新しいことを考え始めた。人間は根源的に条件づけられている。それは一つに人間対人間の関係において。例えば私が生後間もない時に、私をケアしてくれる他者なしにどうして生存が可能であるか。そしてまた一つに人間対自然の関係において。私を構成するこれら全ての素粒子はまさに自然だ。そしてまた何かを食べ何かを飲み呼吸し排泄することなしには生存は不可能だ。それゆえに人間は、人間的に、そして素材的に、それらの条件の上にのみ自身の生存を続けていくことができる。自由意志や欲望によっては乗り越え得ないものがある。その条件を否定し、真に自由な神のごときものになるのは不可能である。私は他者なしでは生きられない。私は世界なしでは生きられない。私は自然なしでは生きられない。そのようして私は様々な事物と、根源的相互依存性という関係を否応なく取り結んでいる。それゆえに、私が私の生存を続けていくために、倫理のことを始めなければならない。それは例えば自己抑制という倫理であるだろう。無論それだけではないだろう。しかしどちらにしても私の生存のために倫理が必要であることは間違いないのだ。倫理によってこそなされる生存の肯定。生存を肯定するための思考と実践の展開。

 


(しかしこれは単純に68年の思想を否定することではないだろう。むしろその中のある一つの潮流を発展させたものと思う。それは同じく68年に端を発する加速主義とは逆向きの潮流の発展だ。)

 


絶滅と超越ではなく、生存と持続へ。孤絶する超越性ではなく、連帯する脆弱性へ。