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井上総司/ANTIFA

安倍の件に関する雑感

7/8は夕方ごろ家に着いた。LINEをチェックし、友達から何やらきており、開けてみて、安倍が撃たれた、もうネットでは犯人は〇〇人とか出てる、在日関連の勉強会するのに不安あるので警備に来てくれんか?とあった。そこで初めて安倍が撃たれたことを知った。Twitterでニュースを見、愕然とした。マジか。そしてまず思ったのはこれは二・二六じゃないかということだ。安倍が死んだこと自体は、まあ驚いたが別に悲しくもない。しかしこの事件を奇貨として、国家の統制が強められるのではないか、また安倍が殉国の英雄に祭り上げられ酷いことになるのではないか、という絶望感を感じた。

取り敢えず警備行きますと返事をした。それから行って、ぼんやりいて、終わって解散して帰宅した。現場に着いてから安倍の死が報じられた。帰宅してからも全く食欲がなく、体も頭も麻痺したような状態が続いた。安倍は撃たれた瞬間何を思ったか、死ぬ瞬間何を思ったか。そんな考えが頭の中をぐるぐる彷徨っていた。そんなことを考えてどうするわけでもないのに。何のショックなのか。今もよく分からない。繰り返すが悲しいとかそういう気持ちではなかった。ではなんなのか。よく分からない。

 

 

 

 


取り敢えず今言えそうなことをメモ代わりに書いて残しておく。ショックから立ち直るための試行でもある。事件をどう意味づけるのか。権力に都合の良い意味づけを拒絶するとして、ではどのようにして。

 

 

 

 


統一協会への批判としては三つ筋があるように思える。

一つには統一協会の主張への批判。自由・平等・民主主義を基軸とする現代社会をその根底から否定する主張というのはやはりよろしくない。ましてやそのような主張を行う集団と、自由・平等・民主主義を守る責任を負っているはずの国会議員が懇ろな関係を持つというのはさらによろしくない。その点において自民党、そしてその他の野党の中で、統一協会と関係を持ち続けるのは批判されても仕方がないだろう。

二つには統一協会の実践への批判。僕はリアルタイムでは知らないが、統一協会はかつて霊感商法合同結婚式などの、いわゆる「反社会的」な実践によって批判された。そして基本的にはこの手の実践は、現在においても継続されていると見て良いと思われる。であるならば、やはりそこは批判されるべきところだろう。そしてまた一つ目の筋と同じく、そのような「反社会的」な集団と政治家が懇ろな関係にあるというのはよろしくない。それが結果として統一協会の正当性を高め、様々な問題ある実践に箔をつける結果になるのだから。ここにおいても政治家は統一協会と関係を持つべきではないだろう。

三つには政教分離の原則。しかし僕はこれに関してはペンディングとする。単純素朴に僕はそれについて知らないからだ。しかしあえて何か言うならば、現在Twitter上でなされている政教分離に関するお喋りは、果たして本当に政教分離の原則と言えるものなのかどうかだ。単に宗教は政治に関わるべきではないとなると、様々な市民運動の場でリベラル左派と共に戦っている宗教者をも否定することになるのではないか。なのでそこに関してはもう少しきちんと調べて明確にしてから何か言うべきと思う。

 


以上三つは統一協会への批判だ。それは当然あるべきだしどんどんなされるべきである。しかし同時にそのような批判が、知らない間に単なる不当なバッシングに堕する恐れがないわけではない。なのでそのようなバッシングとなりうる種類の主張に対しても批判をする。しかしこれは統一協会への擁護ではない。そうではなく、正しく統一協会というカルト宗教を批判するための、避けるべき陥穽の提示というところだろうか。

一つ目はカルト宗教と宗教をごっちゃにしないこと。あくまで批判されるべきはカルト宗教であり宗教全般ではない。その実践において「反社会的」であるような宗教が批判されるべきであり、そうではない極めて普通な宗教が批判されるべきではない。僕がここで念頭に置いているのは、9.11後のイスラモフォビアだ。9.11後も、犯人がイスラムであると分かった途端にムスリムが纏めてテロリストであるかのように言われふざけた嫌がらせを受けることになった。この轍を踏むべきではない。批判されるべきはカルト宗教であり宗教全般ではない。宗教というだけで危ないと見做すような自身の偏見には注意深くあるべきだ。

二つ目は個別の統一協会の関係者への偏見は絶対に避けるべきであること。既に報道でも触れられるようになっているが、今回の問題には「二世問題」という側面がある。もし例えばある人が統一協会の子であるとして、それをもって何かあいつらも統一協会で危ない奴なのだ、というような偏見に基づく排他は行われてはならない。まさにそのような偏見が、「二世問題」が拗れる要因にもなる。また本人が統一協会のメンバーだとして、それをもってその人を危ない奴だ反社会的なのだと決めつけるのも避けるべきと思う。というより、今回の事件では撃たれたのは統一協会の側なのだ。そこを見誤るべきではない。

 

 

 

 


以下は更に雑感。

 


テロではない。犯人は動機を政治的なものではないとわざわざ言っている。であるならばこれはテロではなく怨恨による犯行である。つまり民主主義への攻撃とは言い難い。

 


安倍晋三を悼む気は一切ない。悲惨な最期ではあったが、だから何なのか。その上で、一般論として、殺害されるというのは為されるべきではなかった、とは言っておく。

 


今後の日本政治が心配だ。そこが一番この事件で絶望を感じた。二・二六かよとまず思った。しかしこれは後犯人の動機によってそうでもないということは分かった。しかし二・二六の事件が動機とは無関係に国家統制の強化の理由として使われたという点は覚えておくべきか。今回の件でも、早速野次排除がダメって判決が出たからとかパヨクの安倍批判が凶行を招いたとかふんわり若手知識人風味の奴まで出張って言い始めている。それに対しては批判と暴力は全く違うということを言い続けること。

またこの事件によって、安倍を殉国の英雄扱いし出すのではないかというのも心配。こちらに関しても動機の非政治性によってある程度緩和されてる感はある。しかし選挙後に三原順子安倍晋三は光になった!的なことをテレビで喚いていたのもあるので、まあやはり気をつけるべきではあるだろう。テレビの安倍礼賛報道もそのような英雄化に一役買うことになるのではないか。気色が悪い。

しかし事件からしばらく経って改めて世間の空気を見るに、思ったよりみんな何とも思ってない、ある意味では冷静でさえあるということを感じる。しかしそれはそれで不気味だ。こんな大事件があった(安倍の評価云々は抜きにして、大事件ではあるだろう)のに、それに何も感じないというのなそれはそれでどうなの?と。でその一方では参政党だのNHK党だのの選挙をおもちゃにしてるような類が国会に議席を得たりする。そして何かのイベント的なノリで安倍の遺体の乗った車列をスマホで撮影したりする。こういう空気に僕は不安を覚える。何かの底が抜けている。シニカルすぎないか?

 

 

 

 


ここまで書いても全く取り敢えずヨシ!みたいな感じがしない。いまいちよく分からない、というのが正直なところだ。まだ事件の全容が明らかではないこと、僕が宗教なり統一教会なりに詳しくないこと、などが理由としてある。とはいえ取り敢えず現時点で言えそうなことをメモしておくことは、それ自体が事件の記録になるだろう。