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井上総司/ANTIFA

2011年3月11日以後

ブログの方にもアップしてたかなと思ったらアップしてなかった、2021年の3月11日にFacebookに上げた文章を改めてこちらにも上げておく。3.11以後をどんな風に生きたか。91年に生まれた個人の私的な記録として。

 

 

 

10年前の3月11日、僕は山口に帰省していた。大学1回生の春休みだった。

当然揺れは感じなかった。ニュースで知ったのだと思う。地震の直後のことは覚えていない。

覚えてるのは津波の映像。後で調べて、恐らくは名取川上空からの空撮の中継映像。畑や道路がある土地を、真っ黒い津波が覆い尽くしていく。元は家であったはずのたくさんの瓦礫が流されている。車が流れている。その中に人がいることを想像した。

ビニールハウスを津波があっという間に飲み込む瞬間が忘れられない。ビニールハウスなんて、それこそ何処にでもある当たり前のもの。しかしそれが壊れたり津波に飲み込まれたりするなんてことを、これまでの生涯で一度たりとも考えたことはなかった。それが起きている。日常というものが、脆弱で当たり前ではないという現実が、杭になって、上から下へと突き刺さるようだった。

夜になって、気仙沼が火の海になっている映像を見て言葉を失った。こんなことが本当に起こるのか。これが現実なのか。映画か何かじゃないのか。こんな風に町の広範囲が、炎に包まれるなんて。空襲がこんな風だったのだろう。現実離れしていた。

原発があんなことになるなんて思いもよらなかった。というより、そこに原発があることも知らなかったし、そもそも原発の存在そのものを意識したことがなかった。

3月12日、原発の一号機建屋が吹っ飛んだ映像を見た時のことが忘れられない。日本は終わる、と本気で思った。今自分が山口にいて、流石にここなら大丈夫だよな、と、考えていた。そしてそれも何の根拠もなく、一体何がどうなるのかわからないままに、とにかく終わった、と感じた。兄が東京にいた。母親にすぐに兄に電話したほうが良いと言った。東京から離れたほうが良い。これは本当にヤバい。しかし兄は冷静に大丈夫だと言っていた。どちらが正しいのか、何年経っても分からないのではないか。

そこから刻一刻と変わりゆく原発の様子をひたすらテレビで眺めていた。祈るように。早く注水してくれ、早くヘリから水を落としてくれ、早く消防車で放水してくれ。そう祈っているうちに、さらに二つの建屋が吹っ飛び、原発メルトダウンし、人が住めない土地がこの日本に、現実として生まれてしまった。

3月11日に僕のそれまで知っていた日常は壊滅した。二度と戻ってきようのないものになった。なんとなく普通に大学行って、何となく普通に地方公務員にでもなって、何となく普通の日常を送れれば良いと思っていた。それは不可能になった。いや、不可能になったのではない。僕自身がそれは不可能なのだと確信してしまった。震災と原発事故が僕の日常を絶対的に切断した。その切断以後、一体どんな風に生きれば良いのか分からなくなった。

京都に帰ってからもずっと何も出来なかった。授業に行けない日が増えていった。深夜にウロつく習慣がついた。自分の知る街並みが津波に飲まれる映像を想像した。眠れないまま夜明けを迎えて、結露に濡れた窓ガラスを、悲哀の感情と共にじっと見ていた。言葉にすることができない悲哀と憂鬱と絶望が居着いた。必死で日常を繕いながら、しかし繕いきれない破れ目が生じている。それを閉じるために足掻いては、更に酷い有様になる。他人に共有することなど不可能だった。言っても分かりようがなかったろうし、今でも伝えられる気がしない。

自分が死ねべきであったのだと確信していた。誰かにとっての大切な人であった、震災で亡くなった人の代わりに、自分のような、誰にも必要とされないクズが、原発のようなものを黙認し、知ろうともせず、日常などというものに当たり前に浸かりきって、誰かの痛みを厚顔にも無視し続けてきた自分こそが、死ぬべきであったと。

10年経った。2011年から2、3年経って、カウンセリングやら心療内科やらに行くようになってうつ病と診断された。それは今も治っていない。自分こそが死ぬべきであるという確信から自由になるのに5年かかった。僕にとっての3.11以後はその時からやっと始まった。

僕の人生は3.11で決定的に変わってしまった。直接被災したわけでもないのに、知り合いが被災したわけでもないのに、変わってしまった。しかしそのことを嘆く気は無い。変わるべきであったのだと思う。

3.11以降、多くの人々が路上に飛び出し、それまでとは違う生き方を生きることを選んだ。僕は遠くからずっと眺めていた。アラブの春を見ていたから、日本でもそんなことが起きるのだと言うことが驚きだった。日常が切断されてその後に、こうして以前とは違う何かが始まる。それは、希望だった。しかし、僕はとりあえず、自分自身が死ぬべきであるという確信から自由になることで精一杯で、とてもその希望に追いつく元気はなかった。ひたすら自分を許容する根拠を模索するばかりであった。今はやっと、その人たちの背中を、何とかかんとか追いかけることが出来ている。

色々なことが変わらず、しかし変わったことも多くある。僕はやはり変わるべきであると思う。もうあんなことを黙認したくない。そのために声を上げること。声を上げ続けること。それも路上で。社会や世界に向けて、自分はこう思い、こう感じると、大きな声で叫ぶこと。不正義を許さず、痛みや怒りを沈黙させず、まっとうな社会であれと行動すること。

3.11を決して忘却してはならない。それは現実にまだ終わっていない。原発事故は未だ収束していない。それは過去になり切ることを拒絶する今である。だから今、ここで、その出来事を引き受け、自らの言葉で応答すること、声を上げること。それが僕なりの3.11以後の生き方だ。