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井上総司/ANTIFA

マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』


この世界に外部はないし、この先も後もない。ただひたすらに今ここが、平坦に、フラットに、滑らかに続いていく。そのような今。フィッシャーはそれを「資本主義リアリズム」と名づける。

 


抵抗がある。それは商品として売られている。快楽がある。それは商品として売られている。現実攻略法がある。それは商品として売られている。全ては資本の自己増殖へと結びつく。

 


資本主義。そう、問題は資本主義なのだ。それ以上の問題があるのだろうか。そのことに気づくまでに、いったい日本の「現代思想」の人々は何を喋っていたのか。僕にはそれが分からない。『資本主義リアリズム』の原著が出版されたのは2009年だ。そして本邦訳が2018年。この時間的距離が意味することを思わずにはいられない。イギリスでは既に09年に資本主義を批判的に問う本が出され、そして思わぬ反響を呼んだ。その反響がやっと日本に届いたのは、2018年だということ。もう一度言おう。この間日本の「現代思想」の人々は一体何をお喋りしていたのか。

 


「「諦め」の常態化に抗うーあとがきに代えて」で訳者が述べる通りなのだ。「いまさら資本主義を直接攻撃するなんてベタじゃないですかね?まさしくこの物分かりの良さを装った挫折感は、「資本主義リアリズム」の基調に他ならない。ベタに夢を見ないゆえに絶望しない私たちは、この現代社会を生き抜く力をかろうじて身につけてきたのだが、新しい未来を構想する力はそのうち、見えないどこかへ委託されてしまったのではないだろうか。」(p.202-203)

 

 

 

私たちが生きるこの今を、「資本主義リアリズム」と名づけてみる。そうすると極めてクリアに私たちが私たち自身を閉じ込めるこの状況が見えてこないか。「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。これが資本主義リアリズムの意味するところだ。「この道しかない」。そしてこれが資本主義リアリズムの標語だ。ここにはこれしかなく、そしてそれは世界の終わりまで続く。だから私たちの生は、何か根源的に(即ちラディカルに)新しいことを想像し構想し創造し実践するなどということにその時間を割いてはならない。それは端的に無意味である。私たちが私たちの生をより良いものとしたいのならば、するべきことは一つー適応せよ。

 


そのようの資本主義リアリズムの直中でのこの生のありようを、フィッシャーは様々な素材を用いつつ、極めてクリアに抉り出していく。シニシズム再帰的無能感、鬱病的快楽主義、市場型スターリニズム。などの概念を創造しながら。

 


しかしではこのこれとは何なのか。私たちはもはやそれを名指す言葉すら持たなくなってしまっている。こんな馬鹿げた目標設定、ブルシットなだけだ、そうシニカルに口の端を引き攣らせながら従順に仕事をする。様々な自己啓発書に書かれた賢者の教えに従いつつ、賢く働くよう自身をマネージする。しかしではこれはなんなのか。この生を規定するのは単に私なのか。私の意志か。私の選択か。私の自己責任か。しかしそもそも「この道しかない」のに、私の自己責任とは、私の選択とは、私の意志とはいったい何なのか。

 


ティーンエイジャー同士の発砲事件があたりまえとなり、病院では病原性の強い超細菌が培養されるようになった、崩壊状態にある社会圏では、結果(効果)がその構造的な原因と結びつけられることが必要だ。「大きな物語」に対するポストモダン思想の疑念とは反対に、私たちは、これら問題が孤立した偶発的なものではなく、むしろ単一の体系的な原因による作用だということをより明確に示さなければならない。その原因とは、資本である。私たちは初心を貫き、存在論的にも、地理学的にも遍在化している資本に対して、戦略を立てなければならない。」(p.191-192)

 


私たちが私たちの生をより善いものとするために、四六時中どこからともなく響いてくるより効率的により成長をより成功をより給料をよりリア充をというその声から身を引き剥がすこと。そしてその声に対してアイロニカルに距離を取るシニシズムをも捨てること。このこれへの諦念を捨て去ること。そして私たちを取り巻くこの「大きな物語」に「資本」と名をつけ、その世界観を「資本主義リアリズム」と名指すこと。そこから始めることだ。

 


しかしそう構えて読む必要はないかもしれない。僕自身はこの本を、もっとカジュアルに、僕自身が大学生の頃からずっと感じていた就活だの自己の成長だの成功だのという掛け声への違和感を極めて明瞭に形にしてくれた、ある種の物語のようなものとして読んだところがある。多分そういう違和感は皆が感じていたのではないか。僕はその程度が極めて強く、結果、学生時代の僕を知る人は知ってるように留年を繰り返すことになったわけだが。とはいえこのような違和感は普遍的であると思う。誰も本当の本当に心の底から、キラキラ自己啓発本に書かれてあるようなキラキラした感じで仕事をしているとは思えない。そしてではそのキラキラ感を笑うとして、しかし単にそれを冷笑するだけで済ませて良いか。それをシニカルに笑ったところで、何一つこの現実は変わりはしないのに。何も変えないシニシズムに何の意味があるのか。結局、今現在の日本においては、「資本主義リアリズム」の中で取りうるメジャーな態度というのは二つなのだと思う。即ちキラキラと過剰適応すること、あるいはシニカルに冷笑しつつ適応すること。結局適応するしかないのか?そうではなかろう。と、僕はずっと思ってきたし、それにかなりの程度従いつつ、しかし生きるために妥協したりして、今こうしてこの本を読んだ感想をつらつらと書き、SNSにそれを投稿している。

 


私は、この世界、この「資本主義リアリズム」を拒絶し、その外に出たい。その外で、本当の意味で先に進みたい。

 


最後に付け加えること。本書の著者マーク・フィッシャーは2017年に自ら命を絶った。重い鬱病を患った末とのことだ。私たちはフィッシャーの言葉を読み、その言葉とともに、その言葉の先に進むのだ。