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井上総司/ANTIFA

津島佑子『狩りの時代』


まず驚くべきなのはこの遺作となった作品、特に障害者に対する差別を主題とする作品が、2016年のやまゆり園事件以前に書かれたということだ。それを受けて書かれたのではない。それが起こる以前に書かれたということ。それはつまりこの作家が、如何に時代の空気を鋭敏に感じ読み取ることが出来ていたかということを証し立てるものだろう。そしてそれはまた、あの事件が、私たちが作家と同じく、この時代の空気を感じ読み取り何かしらの対策をしていたならば、防ぐことができていたのではないかということでもある。

 

ご存知の通り、やまゆり園事件は2016年7月26日に発生したヘイトクライムだ。単純な殺傷者数においても恐るべきものであり、何よりその動機には障害者をこの社会の「不適格者」と見做し、むしろ死を与えることこそが良いことなのだという、ナチの優生学の発想そのものである。しかも犯人はそのナチの優生学を知らなかったという。そのことが意味するのは何か。私たちの住むこの日本社会は、ナチの知識なしにナチが行ったことを行いうるということだ。そしてそれはつまり、私たちが当たり前に暮らすこの社会の空気は、おそらく驚くほどナチスが生まれたドイツの空気と似通ったものとなっているのだろう。

 

このような現在に際して、それを危機と認識するためのアプローチは二つあるだろう。一つは単純に歴史を学ぶこと。歴史を学ぶことで、危険な過去と現在との類似性に気づき、何かしらその危機を回避するために努力することだ。そしてもうひとつは、想像力を用い、それによって私たちの暮らすこの現代の空気を凝縮させ、結晶させ、一編の物語として提示することで、多くの人々が気づかなかった時代の空気の危機を可視化させること。津島佑子が試みたのはまさに後者ではなかったか。そしてその正確さこそが、結果として、津島の遺した物語を、直後のヘイトクライムへの予言となってしまったのではないか。

 

 


亡くなった障害を持つ兄、そしてその妹。その妹の耳に「フテキカクシャ」「アンラクシ」「ジヒシ」という言葉を囁きかけた親族の誰か。その言葉がやってきた由来を辿ることが即ち家族の歴史を辿ることであり、日本の近代を辿ることであり、そしてそれは日独伊三国同盟によるナチス・ドイツと日本との親善と、そのために来日したヒトラー・ユーゲントを見学した家族の行いへの遡行をも意味する。この物語は、そのような遡行の記録だ。教科書話で習うような、どこか他人事の歴史ではなく、私が今ここにいるその理由を辿る遡行によって理解される歴史。しかもその歴史には、抜きがたく誰かを抑圧したという加害の記憶も含まれる。加害の記憶から辿られる私の隣に、その加害の対象となる兄がいる。この怒りと痛み。加害の歴史を遡行出来てしまう私への怒りと、加害の歴史を持ちながらも共に生きていきたいと願っていた私の痛み。

 


それは単なる記憶の遡行に留まることは許されない。素行する自分自身に対して、そのような立ち位置にあることを許せない。そうしてそのような素行によって見えてくるのは、差別はどこから来るのか、どのような関係性から生じ伝えられるのかということだ。本書で描かれるのはそのような遡行でもあるのだ。遡行による差別の理路の可視化。そしてまた、そのようにして生じる差別の理路が、どれほど私たちの当たり前の暮らしの直中にあり、引き剥がしがたく結びつき、まさに私たちの暮らしこそが差別の舞台として今ここにあるかということもまた描かれる。それは理路であるから理もなにもないズルズルベッタリの生活の論理とは別物であると思われがちである。しかしそうではない。むしろそのズルズルベッタリの直中にこそ、差別の理論があり、それを育てる土壌がある。私たちのそれへの無自覚こそが、差別の理路のもっとも重要な養分であるとは言えまいか。忘れること。なかったことにすること。口をつぐむこと。しかし差別の理路から発する差別の言葉は残響し続けること。

 


このように書くとそのような差別と生活というものを見事に重ね合わせる作者の力量への賞賛という風に捉えられてしまうかもしれない。それは確かにそうだ。津島佑子は間違いなく素晴らしい作家なのだ。しかしただそのように作家の力量を賞賛するだけではこの物語の強度の質を見誤るように思う。むしろ津島が本作を通じて描き切ったことは、まさに差別と生活というものが、これこのように分かち難く結びつき、「人間の本音」として、あなたも私も生きてある限りその隣に、ヒトラー・ユーゲントアメリカへの「あこがれ」を駆動因としつつあり続ける、というこの人間の現実なのだ。何事かに「あこがれ」、そしてその「あこがれ」を本来性や中心に据えることで、そこから外れるほかない誰かを、例えば障害者を、例えばユダヤ人を、中心に達することの不可能な「不適格者」として物理的に排除してしまう。それに乗っかる私たちとて、しょせんその「あこがれ」の対象と同一化など出来はしないのに、まさにその出来なさゆえに、過剰に「あこがれ」、過剰に「あこがれ」の対象が行うことを意欲的に行う。ことほどさように「あこがれ」は人を狂わせる。あるいは、人を憎しみと怒りの虜としてしまう。そしてそのような「あこがれ」ほど、私たちにとって馴染み深い、日常的な感情もないだろう。そう、それは日常なのだ。日常の中のごくごく当たり前の感情が、差別の理路への入り口として私たちのすぐ傍で、口を開き人々の頽落を待ち望んでいる。

 


差別は特異な特殊な個人が行うことではない。歴史からの声としてそれは私たちのただの生活の中に常にこだましつづけている。いつまでも消えきらない残響のような執拗さでもって、その言葉は回帰し、あなたの口からもその響きを放ってしまう。あなたもまたその響きの基となり、残響の一部となる。なってしまう。

 


その言葉。一度放たれた言葉。それは決して忘れ去られることはない。「でもあの言葉だけは消え去らない。忘れていたはずなのに、ひどい言葉を聞かされたという感触だけは残されていた。その痛みだけは忘れられなかった。」(p99)その言葉は言った側も言われた側もどうしようもなくその人生を変えてしまう力を持つ。憎しみと恐れと。その二つが胸のなかに重たい根のごとく張り付き食い込みそして私たちから何かを収奪し続ける。

 


これが現代だ。戦前戦後を通じて描かれる家族の物語は、そのまま現代の物語となる。そこに切断があるとするのが本来の戦後というものであったはずだが、私たちはそれを切断することができなかった。それを対象化することができなかった。それゆえにこそ、現代とは、戦前の忌むべき差別の言葉を切断し切ることも出来ずにその残響に毒されている時代なのだ。その残響が誰かに聞き取られ、そしてその残響に誰かが自らの口を合わせる。そうして新たに差別の言葉が放たれる。それが新たな残響となる。そしてその残響から新たな差別の言葉が放たれる。輻輳する差別の言葉。いつまでも消え去らない差別の言葉。怒りと恐れという毒を、その毒の恐ろしさを、知りもしないままに日常的な何事かとして当たり前に飛び散らせ続ける私たち。それに取り囲まれた私たち。否応なく憎しみと恐れに取り囲まれ浸潤される私たち。そのような私たち人間の物語。

 


想像力を用いて、現在という時代を凝集させ、起こりうる危機を見通すこと。一編の物語として結晶させ、この時代を私たちに読み取り可能なものとすること。そしてその危機を避けるための想像力を凝集させるための始まりの言葉とすること。津島が本書で試みたのはまさにそのようなものだった。そして期せずしてそれは現実に起こった事件を見通すかのようなものとして遺された。遺された言葉。憎しみと恐れに否を突き詰めるための言葉。物語。私たちの世界を覆う差別という憎しみと恐れの残響に満ち満ちた世界の中にあって、そうではない言葉を想像力によって模索し書き残し、そして遺された私たちがそれを読み直すこと。否というためにこそ。この現代という時代を想像力をも用いて把握すること。遺されてしまった私たちの闘いのために。ありとあらゆる生存のための闘争のために。