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井上総司/ANTIFA

メッザードラ「戦争から脱走する」へのコメント

戦争から脱走する/サンドロ・メッザードラ

http://www.ibunsha.co.jp/contents/mezzadra01/


イタリアの左翼によるウクライナ侵略に関する論考。左翼であるならばかくあるべし、といったいったところ。「プーチンの戦争」を政治的、経済的側面から分析し批判する。日本のリベラルや左翼がNATOガーゼレンスキーガー!ばかりで何故かロシアに対する批判を全く行わないのとは雲泥の差である。左翼だからこそプーチンのロシアを批判しなければならないのに。


妥当な分析と妥当な批判、しかし一部僕はそう思わない、というところもあった。それは「脱走」の支援をすべきであり武器援助などはすべきではないというところ。


「脱走」の支援には賛同する。ウクライナが18歳以上の男性の国外への「脱走」を禁止したというのはやはり宜しくない。そこにウクライナ国家主義的傾向を見て取るのは正しい。


「「プーチンとでもなく、NATOとでもなく」、「抵抗するウクライナの人びとに武器を」。後者のスローガンは特に、強硬路線の政治家やジャーナリスト、軍国主義者のコメンテーターや熱狂的戦争ファンによってのみ支持されているだけではない。われわれに近しい人びともまた支持していた。当然、イタリアにいるウクライナディアスポラ(ヨーロッパで最も多く、ケア女性労働者をはじめ無数の人びとがいる)の間でも広がっている。私の考えでは、これは支持すべきスローガンではない。」


しかしでは現在ウクライナに留まりロシア軍に対して武器を持って、あるいは非武装で、抵抗し闘争している人々をどう捉えるべきか。それを単に国家主義に絡め取られた愚かな加害者あるいは国家主義に押しひしがれた哀れな被害者として、国家主義に一元的に従属された主体としてのみ見るべきか。僕は否と言う。ウクライナに留まり戦う人々は、何も国家の命令に従属するだけの受動的な主体ではない。彼ら彼女らはむしろ、国家の命令とはまったく別のものに貫かれて、そこに留まり闘争しているのではないか。別に国家を守るだなんて大きなことを言うのでなく、自分達の暮らす街、そして暮らしそのものを侵略以後も続けていくために戦っているのではないか。そしてこのような戦いを、果たして第三者である人間が偉そうにあれは国家主義に絡め取られた愚かな戦争であり今すぐ止めるべきであるなどと言うことが果たして妥当であるか。


戦争とは、何も国家の国家による国家のための戦争だけではない。それは人民の人民による人民のための戦争としてもある。つまりウクライナ侵略において立ち上がる人々の姿は、二重化されなければならない。一つは国家を守るための戦争としての国家主義的モメント。そしてもう一つは、個々人が織りなす共同性によって成り立つ生活を守るための戦争としてのパルチザン的モメントを伴うものとして。そのような二重化によらなければ見えてこないウクライナの人々の姿がある。


つまり、メッザードラの言う「脱走」(「戦争から脱走すること」)への支援と共に、「闘争」への支援が行われるべきと僕は考える。そしてその「闘争の権利」への支援として、他国から武器援助などの支援が行われるのは、妥当であると考える。無論そこには国家主義的モメントが伴うことは承知しつつ、しかしパルチザン的モメントを切り捨てるべきではないという判断からだ。敢えて汚いやり方を肯定する。それが僕の判断だ。(特に日本の反戦リベラルの人々に見られるウクライナは今すぐ降伏せよ抵抗するなという主張は、結局のところこのようにして敢えて汚いやり方を肯定することが許せないからではないかと思える。しかし考えてもみよ。そのような判断をすることによって守られる無垢さとは一体誰のものか。そしてその無垢さの代償に損なわれるのは一体誰であるか。反戦リベラルは結局自身の手の無垢さを守るためにウクライナの人々の生活と命を犠牲にしているようにしか見えない。表面的に守られた無垢さは、その前提に誰かの血と死を積み上げている。これを偽善と呼ばすなんと言うべきだろう。戦後の平和主義が意義のあるものであることは否定しない。しかしそこにはある偽善があった/あるのではないか。真剣にその理念を守るべきと考える人々は一度しっかり考えてみるべきと思う。)


そしてその先の、今現在の侵略を超えた先にあるものの展望においてはふたたび僕はメッザードラと考えを同じくする。


「無論、われわれは反プーチンである。NATOは問題の一部であって、解決策の一部になるとも考えない。けれども、この戦争の背景をなす、国際秩序および無秩序の再定義という混乱を極めるプロセスのさなかでは、われわれは思い切ってそれ以上のことをなさねばならない。」


ロシアを批判しウクライナを支援しNATOの東方拡大はあったとしてだからといってロシアが全面的に不正義であることには変わりがないとする僕ではあるが、しかし現行の国際秩序が完全に妥当なものとは考えていない。なるほどそれはロシアが勢力拡大を狙って戦争を仕掛けるような状態に比べればマシではある。しかしやはり全肯定の対象ではない。例えそれがアメリカによる覇権主義でなかろうと、つまり本来の意味での多国間主義に基づくリベラルな国際秩序であったとしても、僕はそれに対して批判的であることに変わりはない。それが普遍という名の暴力によって、グローバル内戦を行う政治制度である限り、それを全面的に肯定することはできない。だからこそ、僕もまた、メッザードラとは一部異なる経路を辿りつつ、「新たなるインターナショナリズム」に連帯する。「つまり、われわれが生きるこの「ぞっとするような」時代に応じた勢力、パワーを創出するという挑戦にほかならない。」